■冬来たりなば



 明け方に三人揃って宿へ着けば、鉢屋と会話していた兵糧長が手ぬぐいを頭に巻きつけた格好で玄関に立っていた。首を縮めて立ち竦むその様子は男の姿を幾らか年老いて見せていた。鉢屋が忍び装束を裏返し、農民のような格好になっている状態で手を上げれば、男はほぉっ、と安心したように口を緩めた。



 鉢屋が追っ手を全員始末したことを話し、しばらく鉢屋と兵糧長――菅野という男だ――は宿の奥まった部屋でなにやらこそこそと話していた。庄左ヱ門と彦四郎は風呂に入れられ、そして疲れただろうから寝ることを薦められた。宿に着くまでは目が爛々と冴えていたというのに、横になるとあっという間に睡魔が襲ってきた。何しろ一日中起きていたようなものだ。庄左ヱ門も彦四郎もぐっすりと寝入り、庄左ヱ門が目を覚ましたとき、既に日は高く上っていた。彦四郎はまだ寝ている。首を巡らせば、部屋の襖の前に腰掛けた状態で眠っている鉢屋がいて、庄左ヱ門がその姿を捉えたと同時に、ぱちりと目を開けた。
「まだ寝てていいよ」
「いえ、もう大丈夫、…なんです。こちらこそすみません。起こしてしまって」
「私は別に。君らが寝ているとすることもないから寝てただけだからね。こんなによく寝たのは久しぶりなぐらいだよ」
 そして少し、静寂が落ちた。彦四郎の寝息だけが少しだけ聞こえてくるだけだ。鉢屋は何も言わないし、庄左ヱ門も沈黙を保って、申し訳無さそうに居住まいを正しただけだ。布団の上に正座して、そして鉢屋が何かを言うのを待った。
「何か私に言いたいことはないのかい」
「色々ありますけど」
「なら、言うといい」
「何から、言うべきか…」
 鉢屋はふん、と鼻を鳴らして、のそりと立ち上がった。襖を開けて、庄左ヱ門に一言、「外に出よう」と誘った。断る必要もないので、庄左ヱ門は黙って後に従う。ぴしゃりと閉まっても、彦四郎はまだ起きる気配を見せない。



 宿の裏側へ回った。建物の影側になっているので涼しく、近くを小川が流れていた。店の人間にしばらく来ないでくれ、と鉢屋が頼んで二人で縁側に座った。お茶を用意しようとした娘を手で断って、じっと息を顰めるように座り込む。
「言いたいことは決まったかい」
「じゃあ」
 まず、聞きたいことからでいいですか、と庄左ヱ門は言い、鉢屋は、好きなように、と頷く。
「学園長先生からのお遣いの内容は、何だったんですか」
「あの兵糧長――菅野さんに文を届けることだよ」
「じゃあ、どうしてあの城の忍者隊を潰して回ったんですか。菅野さん、からの頼みですか」
「いや。学園長先生からは文を二つ貰っていた。一通は菅野さんへ、一通は私へだ。私への文は学園で既に燃した」
「内容は」
「菅野さんを中心としたあの城の複数の人達と協力して、ヤケアトツムタケに入り込んでいる密偵の忍者隊を殲滅することだ」
 忍者の仕事のことは誰にも言わないのが約束事だというのに、鉢屋はあっさりとバラした。それは仕事が既に終わっていたからか、それとも庄左ヱ門たちに罪悪感を抱いていたのか、それは庄左ヱ門には分からなかった。
「首謀者はどうせ判明してしまうだろうから、その後私は菅野さんを逃がすという仕事も請け負っていたんだ」
「菅野さんは、今は?」
「さぁね」
 君らが寝ているうちに行ったよ、と鉢屋は言った。庄左ヱ門はあの特徴の無い男を思い出しながら、ただ無事であればいいと思った。
「それで、その密偵を倒すために僕らを囮にしたんですね」
「そうだよ」
「何故」
 なぜ、黙っていたんですか。
 そう聞こうとして、やめた。敵を騙すには味方から、だとか、そういう理由ではないことは確かだ。鉢屋は何かを囮にするほど技量で劣っている忍ではない。その、理由こそ、庄左ヱ門は最も聞きたくなかったことだったし、知りたくもなかった内容だった。だからやめた。
 鉢屋はその庄左ヱ門が口を噤んだ様子を見て、はっ、と笑った。鼻でせせら笑い、「何故」と言葉を重複した。
「何故、なんだい?」
「…鉢屋先輩、僕が鉢屋先輩の暗器を持っているのを見たでしょう」
「私のじゃないかもしれない」
「一年生が持つような武器ですか、これは」
 庄左ヱ門は懐から鉢屋から盗んだ暗器を取り出し、それを鉢屋に差し出す。「お返しします」鉢屋はそれを冷ややかに見返すだけで、手に取ろうとはしなかった。
「何故?」
「僕には、これは、……まだ重過ぎます」
「軽い部類だけどね、手裏剣のようなものだし」
 そういう意味ではないことは二人とも承知だ。だから庄左ヱ門は無視して、「何故見逃したんですか」と聞いた。
 鉢屋は「気づかなかった」と一言返した。見え見えにも程がある嘘だ。
「鉢屋先輩は!」
 癇癪を起こしたように庄左ヱ門は声を荒げ、強く床を叩いた。何にいらついたのか庄左ヱ門にもよくわからない。鉢屋が庄左ヱ門を見ないからかもしれないし、鉢屋が真面目に答える気がないせいかもしれない。庄左ヱ門は立ち上がり、鉢屋の正面に移動した。鉢屋は小川を見下ろしていたが、目の前にやってきて視界に入り込んできた庄左ヱ門のことは素直に見上げた。ただ冷静な様子に庄左ヱ門はすっと冷静に戻って、しかしさっき聞きたくないと思っていた問いを口に出してしまった。振り回されてしまっている。
「どう、いう、つもりなんですか」
「どういうつもり、っていうのは」
「僕に何をさせたかったんですか。……何が、見たかったんですか」
 鉢屋は、何かを観察したかったのだ。恐らく、庄左ヱ門が窮地に陥ったのを見たかった。その時、庄左ヱ門が『凶器を持っている』という場合と『自分が死にそうな状態』である場合とが合致したとき、どのような行動を起こすのか、鉢屋はそれが見たかった。
 庄左ヱ門の問いに、鉢屋はただ馬鹿にするように口を歪めただけだった。不破雷蔵のやさしげな風貌に刻まれたいやらしい笑みが庄左ヱ門を馬鹿にする。
「君が人を殺す様子が見たかった」
 次の瞬間、庄左ヱ門の掌が鉢屋の頬を打った。渾身の一撃だったが、鉢屋の顔が打たれて横を向いただけだった。そして微かに赤く色づく。それでも鉢屋はやれやれ、といった風にため息を吐いて、ゆっくりと正面を向いた。
「……もうお仕舞いかい」
「ぶってすみませんでした」
「……君は」
 鉢屋は呆れたように肩を竦めた。
「怖ろしい子だね」
「怖ろしいのは貴方です」
 人の行なえる所業ではない。庄左ヱ門はそう吐き捨てた。怒りか悲しみか判別のできないほど震えた声が捻り出され、庄左ヱ門はきっと鉢屋を睨む。
「貴方は、酷い人間です。外道といっても差し支えのない、他人の見た目しか映せない、ただの天才です」
「そうだよ」
鉢屋は寂しそうに頬笑んで、「知らなかったのかい?」なんて聞いた。庄左ヱ門は黙ってそれを見返すだけだ。
「でもお前は、そんな私を好きになったんだろう?」
 さらりと呟かれた言葉はあっさりと小川のせせらぎに流された。分かりきった詰まらない嘘ばかり重ねられて包まれたその一言をようやく吐き出して、鉢屋は、は、と吐息を零すように笑った。
「それで? 庄左ヱ門はまだ私が好きか? この畜生のような、人の動作をつなぎ合わせて作ったような私のことが?」
「好きです」
 間髪いれずに返されたその言葉に、鉢屋は大して驚きもせず、そう、と一言返した。
 庄左ヱ門も、どうして自分はこんなに簡単に好きだと言えるのだろう、と思った。つい昨日までは、本当にこの人が好きなのか分からなくなっていたのに。むしろ嫌いだとさえ思っていたのに。この人と話して、この人の隣に座って、ただ言葉を聞いているだけで、庄左ヱ門はどんどん冷めていた。怒りや悲しみではちきれんばかりだった感情の袋を、庄左ヱ門の冷静さが一気に冷やしていく。理由は庄左ヱ門にも分からない。ただこのガラクタの寄せ集めのようなこの男が、どうしても好きでしょうがないのだ。
 鉢屋は庄左ヱ門から目を逸らし、もう一度、「そう」と呟いた。声は寂しげだった。一度瞼を閉じ、よく分からないような声音で、行き場を失った子供のような不安そうな声で、鉢屋はそれでも歪に笑った。
「ごめんな、庄左ヱ門」
「いえ。僕は全然、大丈夫です」
 しっかりと意志を持って答えられた庄左ヱ門の言葉をゆっくりと噛み締めるようにして、鉢屋はもう一度、ごめん、と言った。なんと返事をすればいいのか、鉢屋は分からなかったのだ。



2010/5・22


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