■冬来たりなば



「貴様のような屑、初めて見たぞ」
 ひゅう、と喉に空いた穴から抜けた空気が擦れた悲鳴を上げている。運良く仰向けに転がって死期を待つ男はどんよりと濁った目で空にぽっかり浮かんだ月を見上げていた。
「忍者は卑怯卑劣が売りだと言うし、俺達だってそれを売りにしてきた。騙し賺すのは忍の性だ。だがお前は違う。人間の残り滓の寄せ集め、屑の掃き溜めみたいな奴だ。歳はいくつだ? お前が戦場に出たら、どうなっちまうんだろうなぁ」
 男の傍らに忍者刀を携えて経つ人間は女だった。つい先刻まで口付けを交し合い睦言を囁きあっていた、将来を約束した女だった。愛し合っていたその女が、突如何の前振りも無く男に切りかかる。何の抵抗もできることなく虫の息に追いやられた男は、湿った地面に倒れながら、ひゅ、と短く息を吸って、それを吐かなかった。もう二度と、息を吐くことは無かった。
「さて、これで二人…あと四人か。ふん、日が昇る前に全員やれるかな」
 どうでも良いことのように気軽に呟き、女は顔からべりべりと薄い膜のようなものを引き剥がした。その下にある顔は今ここで死に絶えた男のものだ。月光の光を使って髪の毛を直し、女から男へ化けた『何か』はそっと暗闇に溶けた。



 悲鳴が聞こえてから、何か大きなものがどさりと倒れる音が地面の下まで聞こえてきた。ひぃっ、ひぃっ、と悲鳴を押し殺すような嗚咽が続いて、いてぇ、いてぇよう、と男の泣く様な声がぼそぼそと響いた。
「しょ、しょうざえもん、」
「しっ」
 怯えるように庄左ヱ門に縋りついてくる彦四郎の口を塞ぎ、庄左ヱ門は注意深く外の音を聞いた。ちくしょう、ちくしょう、と聞こえてくる男の低い声以外には葉の擦れあう音しか聞こえない。庄左ヱ門は懐に持っていたくないを引っ張り出し、彦四郎にもくないを取り出すように言った。じりじりと上から灯りの漏れる下に移動して、天井を持ち上げる。ばらばらばら、と詰まっていた土が零れながら、結構簡単に扉は開かれた。彦四郎に扉を預けて、庄左ヱ門はくないを正面に向けた。その向かいではぐったりと地面に倒れ伏しながら、目を点にしてこちらを凝視する男がいる。手には縄標が握られていた。
 忍者であることはどうみてもわかる。庄左ヱ門は先に外に出てから男以外に人がいないことを確認し、彦四郎を引き上げた。ここがどこであるかは分からないが、日が昇るまでは動けない。それよりも男が一体こんな所で何をしているかが問題だった。見れば男の肩と背中に棒手裏剣が深く突き刺さっている。それだけで動けなくなるなんてことは無いので、おそらく毒が塗られているのだろう。この男が戦っている相手が鉢屋なのであれば、棒に塗られていたのは昨晩見た貝の中に入っていたあの塗り薬だろう。解毒の方法も分かりはしないし、そもそも鉢屋が殺そうとした相手を助けることはできない。学園長が殺すことを命じたということは十中八九悪い奴、なのである。
「なんだぁ・・・おま、えら、忍者か?」
「忍者の卵、略してにんたまだ。きっとおじさんの味方じゃないよ」
「・・・・・なぁ坊ちゃん達よぉ、助けてくれねぇか?」
 話の流れを聞いていなかったかのような申し出に、彦四郎が「なっなんで僕たちがお前を助けなきゃいけないんだ!」と憤慨したような声を上げた。
 男はぐったりと倒れたまま、ひへへ、と引き攣って笑いを零した。無精髭の生えた顎がかくかくと気の抜けたように単調に動く。
「このままじゃおれぁ・・・死んじまうよう。なぁ慈悲深い坊ちゃんたち、じゃぁせめてよう、水を一杯くれねぇかい」
「水」
「ちょっとそっちに歩いてくとよう、川があるんだよ。俺の懐に竹筒があるから、酌んできてくれねぇかい」
「断る」
 微かに動いた彦四郎を静止させるように庄左ヱ門がぴしゃりと跳ね除けた。庄左ヱ門は冷静に、いつもの状況と今の状況が違うということを理解していた。いつも助けてくれている先生達は居らず、守ってくれるはずの鉢屋は今この山の中のどこかを奔走している。助けは来ない。下手には動けない。
 男はじとり、と庄左ヱ門を見て、ひひ、と笑った。そりゃそうだ。そうだよなぁ、と呟いて、ひゅうひゅうと喉を鳴らした。
「じゃあよぉ、せめてよお、これ、抜いてくれねぇか」
 これ、というのは突き刺さっている棒手裏剣だ。男は苦しそうに「腕がもううごかねぇんだぁ」と嘆いた。見れば男は瞼を閉じて、浅い息を静かに繰り返しているだけだ。棒手裏剣の刺さった部分が紫色に変色している。
「どうせもう死んじまう。なぁ、坊ちゃんよう」
「庄左ヱ門」
 彦四郎が庄左ヱ門の腕を掴んで、意を決したように呟いた。危ないのは分かっているのに、それでも目の前の死にいく命に情けを掛けてしまいたくなったのだ。庄左ヱ門も心の中ではこの男を助けてやりたかった。自分達はこの男がどのようなことをしてきたのか知らない。哀れみを抱かない方が無理というものだ。
 彦四郎が庄左ヱ門の前に進み出て、恐る恐る、といった風に男のすぐ横に膝を下ろした。男はうっすらと目を開けて、ありがてぇ、ありがてぇ、と呟き、
 そして安心したように微笑み、
 そして突如、跳ね起きた。
「ぎゃははははははぁっ! ひっかかってんじゃねぇよ馬鹿がぁっ!」
 彦四郎の首に野太い腕が絡みつき、男の持つ縄標の先端、鈍く煌く刃が彦四郎の首に宛がわれるのと、庄左ヱ門が手に持っていたくないを男の腕に突き刺したのは同時だった。
 男の絶叫は獣の咆哮のように夜の冷えた空気を切り裂いた。彦四郎が転がるように地面に落ちて、くないを腕に突き刺したままの男の太い腕が庄左ヱ門の顔にぶつかった。たまらず後ろに転がって、庄左ヱ門は四肢をついて慌てて立ち上がる。男は錯乱したかのように何かを喚いて、地団太を踏み、口角から泡を吹きながら庄左ヱ門に突っ込んできた。庄左ヱ門は懐に手を入れて、其処に入っていたものを咄嗟に引っ張り出した。それは昨晩、鉢屋の荷から盗んだ三日月型の刃だった。はっと息を飲むのと同時に、男の体が庄左ヱ門を吹っ飛ばす。二人はもつれ合うようにして湿った地面の上を転がって、そして気がつけば庄左ヱ門は男の上に馬乗りにして座っていた。男の手が庄左ヱ門にむけて伸ばされるのを見て、庄左ヱ門は反射的に手に持っていた刃を男の喉に突き刺そうと手を振り下ろした。
「庄左ヱ門っ! 駄目だっ!」
 刃の先端が男の喉を切り裂く寸前、庄左ヱ門はぴたりと止まった。止めたのは彦四郎だった。月に照らされた中、男は白目を剥いて倒れたままだった。ぽたぽたと庄左ヱ門の鼻から溢れた血が男の胸に落ちる。恐らく庄左ヱ門に体当たりをする間に毒で絶命していたのだろう。揉みあっている間に男は死んでいた。死体にそれ以上の危害を加えるのはいけないと、彦四郎は止めたのだった。
「庄左ヱ門、・・・もう死んでる、から」
 近寄ってきた彦四郎が、庄左ヱ門の手を引いて立ち上がらせた。放心したように男を見下ろしていた庄左ヱ門はようやく頭を上げ、ふるふると頭を振った。
「もう、大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫。落ち着いた。大丈夫だよ」
 庄左ヱ門は持っていた刃を仕舞いなおし、辺りを見回した。明確な時間は分からなかったが、空の色が段々白み始めているようだった。夜明けまであと数時間といったところだろうか。どっと疲れがやってきたのか、緊張の糸が解けたのか、彦四郎はじっと庄左ヱ門を見ていたと思うと、ぶわっ、と両の目から涙を溢れさせた。
 突然泣き出した友人の行動にびくりと肩を震わせて、庄左ヱ門は何、どうしたの?と彦四郎の肩を摩った。彦四郎はよかったぁ、庄左ヱ門が死ななくてよかったよぅ、と言ってしばらく泣いた。
 近くにあった木の根っこに二人で身を寄せ合って固まり、朝が来るのを待った。彦四郎は泣き止むと、ぼんやりと虚空を眺め、そしてちらちらと庄左ヱ門のことを盗み見た。
「なぁに?」
「・・・あのさ、鉢屋先輩、今頃何してるんだろうね・・・」
「さぁ・・・」
 きっと人を殺しているんだろう、と庄左ヱ門は言いかけて、自分の言葉が冷たいことに気づいた。この一件で、もしかして自分は鉢屋のことを嫌いになったのだろうか、と思った。なんといったって鉢屋が悪いことは明白だ。それでも、庄左ヱ門は彦四郎が泣いている間中、鉢屋のことを考えていた。ただ、考えていた。心配していたのかもしれないし、恨んでいたのかもしれなかった。庄左ヱ門はよく分からないまま、ただ鉢屋のことを想っていた。
「無事だといいね」
「・・・そうだね」
 彦四郎の言葉に、庄左ヱ門は頷いた。そう、とりあえず、死んでいて欲しくないのは本当だ。無事であって欲しい。鉢屋が何を想って行動しているとしても、庄左ヱ門も彦四郎も、鉢屋が死んでしまうことは望んでいない。それは確かだ。
 その時、向こうの草陰からぬぅっ、と人が現れた。黒い忍装束に身を包んだ、背の高い男だった。庄左ヱ門と彦四郎は、それは変装した鉢屋だろうか、と想ったが、そいつが先ほど死んだ男の元へと歩み寄り、生死を確認しているのを見て、鉢屋ではない、と想った。毒の塗られた手裏剣を放ったのは鉢屋だ。鉢屋はあの男が死んだことは知っているはずだ。
「鼠か・・・」
 男は呟きながら立ち上がり、くるりと振り返った。そのままどこかへ行ってくれと願ったが、男はじっと地面を見詰め、そしてぐるりと首を回し、ぴたりと庄左ヱ門と彦四郎が身を隠している木の根元を見た。
 二人は息を詰めてじっと寄り添い、彦四郎はくないを、庄左ヱ門は鉢屋のものであった暗器を握り締めた。男はゆっくりと二人に歩み寄ってくる。あの男は二人がいる場所に気づいていた。
 死んでしまう。庄左ヱ門はそう判断した。鼻から垂れた血が乾いて、鼻の下が痒かった。ふぅ、ふぅ、と興奮したような息が零れて、頭に熱が上ってくる。二人は相手を殺すことも考えながら、じっと男の出方を待った。
「――――――――」
「がっ」
 しばらくして、男が近寄ってこないと想った直後、息を無理やり途切れさせたような引き攣った声が聞こえてきて、そして何か液体の飛び散る音、そして重いものが墜落する音が聞こえてきた。二人はもうしばらくじっとしていたが、ようやく幹の脇から頭を出してみた。先ほどやってきた男がびくびくと痙攣しながら地面に伏していて、その傍らに藍色の装束を着た鉢屋三郎が顔から何かを剥がしている最中だった。
「・・・・・・・・・・・・・」
「はちやせんぱいっ」
 出方を伺っていた庄左ヱ門を置いて、彦四郎が暢気にも鉢屋に走りより、その身体に抱きついた。鉢屋はおお、無事だったか、なんていいながら、彦四郎を抱き上げて、一度回した。そして地面に降ろしてから、次いで出てきた庄左ヱ門を見た。
 何て話しかければいいのか、庄左ヱ門はわからず、じっと鉢屋を見た。鉢屋はにこにこ笑いながら、庄左ヱ門へと歩み寄り、その背をぽんぽん、と撫でて、「ご苦労さん」と囁いた。かっと背中が熱くなるのを感じながら、庄左ヱ門は無言を通した。貴方も無事でよかった。その言葉が出てこなかった。出すことができなかった。
2010/5・13


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