■冬来たりなば



 学園を出た時、時刻は昼より少し前といったところであった。校門に三人揃い、小松田に見送られている間、丁度良く授業の終わりを告げる鐘が鳴ったからである。
 「お昼を食べてからでもいいんじゃないですか?」
 「いや、もう出なければ。きっと夕方には降り出すから、その前に着きたい」
 鉢屋が指差した先に視線を向ければ、どろりと濁った色をしている空があった。丁度彼らの立つ場所は快晴なのだけれど、裏山の方が暗くなっている。雨雲が迫っていた。風も先ほどより冷たくなっている。
 空を見上げる二人を置いて、さっさと鉢屋は歩き出した。その背を追って、二人も慌てて歩き出す。編み笠を目深に被り、姿としては不破雷蔵のものであろう顔は、二人からはまったく見えない。
 ふと考えてみると、学園外で鉢屋と行動を共にするのは初めてのことであった。学級のトラブルメーカー、乱太郎、きり丸、しんべヱは何かと先輩と関わる機会が多いので、以前鉢屋と不破に助けられ、それ以降行動を共にしたことがあったと聞いた。しかし、庄左ヱ門も、もちろん彦四郎も、鉢屋と学園の外で一緒にどこかへ行ったりということは無い。お使いとはいえ、遠くの城までの旅までとなると、ほぼ初めての試みに近い。
 鉢屋の、中肉中背に見える背がやけに遠くに感じた。秋の空は高く見えるというが、鉢屋の背もぐんと伸びたように思われる。
 ふと、庄左ヱ門は彦四郎が伺うような視線を向けてきていることに気づいた。どこか気遣うような目だ。
 「なに?」
 「ううん、なんでもない!」
 彦四郎はぱっと視線を逸らした。なんだというのだろうか。鉢屋は会話が聞こえているはずなのに、ただ黙々と歩いている。何か考えているのかもしれないし、ただぼんやりしているだけかもしれなかった。






 そろそろ休もう、と鉢屋が言ったのは、夕日が傾きかけている頃合だった。鴉が数羽、西に向かって飛んでいっている。まるっきり山中という所で、大きな石の上に三人で並んで座った。庄左ヱ門が一人、飲み水を汲んでくるといって、鉢屋が教えた方向へ向かった。ついでに鉢屋と彦四郎の分の竹筒も持っていく。
 山の中はやけに静かだった。人里が無いのだろう、聞こえてくるのは葉が擦れあう音と、動物が動き回る音、遠くから聞こえてくる川の音だ。彦四郎は、1年い組だってこれほど遠くへ来たことはなかった、と思った。
 鉢屋は黙って空を見上げていたが、突然、何か思いついたように彦四郎へと顔を向けた。
 「彦四郎、お前、私に聞きたいことがあるね?」
 「・・・・えっ?」
 彦四郎の声は裏返っていた。あきらかに動揺している。鉢屋の言葉は、問いというよりはむしろ確認だった。彦四郎は、いいえ、何もありません、などと咄嗟に返すことができなかった。悲しいことに、庄左ヱ門のような、常人とは思えないほどの冷静さを、彦四郎は持っていなかった。
 鉢屋はにや、と笑った。まるっきり悪人である。今の顔を見れば、百人に百人が鉢屋三郎だと言うだろう。不破雷蔵だってこういう笑い方をするかもしれないが、鉢屋の笑い方は独特だ。表情で言いたいことを物語る。これも一種の才なのだろう、と庄左ヱ門が言っていた。
 「お前、庄左ヱ門のことをどう思う?」
 「え、・・・・は?」
 「私はとても恐ろしいと思うんだが」
 「・・・・は?」
 鉢屋は至極真面目そうな顔をしていた。からかっている、嘘をついているようにはどうにも見えない。言葉の意味が理解できず、彦四郎は思わず口を開けて固まる。小さな羽虫が寄ってきたので、ようやく口を閉じる。
 「庄左ヱ門が・・・なんですって?」
 「彼の冷静さは異常だ。常に物事を客観的に捉えることに秀でている。それは教師ですら感嘆することを知っているだろう?私はあの子がたまに何を見て、何を考えているのか分からなくなる」
 「そんなこと、」
 彦四郎は言葉を紡げなくなる。確かにそれは事実だったが、それだけで鉢屋が誰かを厭うなんてないと思っていた。むしろ、庄左ヱ門のその冷静さは好意するべきものだ。彦四郎は今まで何度も庄左ヱ門のそういう部分に助けられてきた。
 「鉢屋先輩は、庄左ヱ門が嫌いですか」
 「いいや、それはないよ」
 鉢屋は一度首を振り、だが、と一度言葉を区切った。
 「だが―――、私は誰にも揺るがされたりしない生き物になりたい。鉢屋三郎は、そういうものでなければならないと思っている」
 彦四郎は口を噤んだ。今更、鉢屋三郎の逸脱した部分を見た気分だった。自分が思っているような人ではない。何故なら鉢屋三郎は誰にでもなれる生き物だ。
 それ故に、『誰にも揺るがされたりしない生き物』―――だ。暖簾に腕押し、糠に釘、柳に風。
 「だから――――私の真実は隠されていなければならない」
 鉢屋は一言、そう締めくくった。
 彦四郎は呆然とその顔を伺い、そしてゆっくりと―――聞いた。
 今まで言った言葉が本当だとして、それはつまり、貴方は。

 「鉢屋先輩は――――自分の真実を見つける者が、不破雷蔵先輩でも竹谷八左衛門先輩でも久々知兵助先輩でもなく――――それが庄左ヱ門だというのですか」

 鉢屋は、彦四郎の予想を裏切り、ぱっと顔を彦四郎へ向けて、間抜けにも「え?」と声を上げた。顔は驚きで満ちている。本当の表情が分からない鉢屋の顔でも、この顔は、本当の、それこそ真実の驚きだと思えた、そんな間抜けな顔だった。
 「それは――――――、」
 気づかなかった。
 今度は彦四郎が眼を見開く番だった。先輩、と一度声を上げかけて、そこでふと背後に誰かが立っているのに気づいた。振り返れば、予想通り庄左ヱ門だ。両手に汲んできたばかりの水の入った竹筒を三つ抱えている。
 「何の話してたんですか?」
 「あ――――えっ、と」
 彦四郎が言いよどめば、鉢屋がすかさず言った。ご丁寧に柔らかく微笑んだまま。
 「あっちに着いたら甘いものを食べようって話をしてたんだ。いい加減疲れてきたし、糖分も欲しいだろう?奢ってあげるよ」
 「いいんですか?」
 竹筒を渡しながら、庄左ヱ門の顔が喜色で満ち溢れた。喜ぶ庄左ヱ門につられるように、鉢屋もにっこり笑う。
 「後輩に奢れないほど貧乏ではないからね」
 軽口を叩く鉢屋はさすがというべきだったが、そんな姿を見ながら、彦四郎は今にも泣きそうになっていた。あまりにも酷いやりとりだったからだ。庄左ヱ門はさっきの会話を聞いていただろうし、鉢屋だってそれに気づいている。互いに嘘だと分かっていながら、こんな茶番を淡々と繋げていた。彦四郎でさえその嘘が分かるほどだった。もう限界だ、と胃がきりきりと痛みを訴えている。竹筒を持つ手が震えていた。
2009/6・21


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