■冬来たりなば



 唐突に普段の授業風景に堂々と入ってきた柔和な顔立ちをした先輩は、黒板の前で目を丸くする教員に、「庄左ヱ門を借りていきます」とにこやかに言った。何事かと固まる1年は組の視線は、じっくりと鉢屋三郎の顔を見つめ、続けてその足元に立つ、自分達と同じようにきょとんとした顔をした彦四郎へと移る。
 「どうして彦四郎が鉢屋先輩といっしょにいるの?」
 相変わらずどこで言葉を発するか考えないしんべヱが、するりとさらりと持ち前の柔らかな空気を垂れ流して言った。問われた彦四郎も肩を竦めるだけで、鉢屋が一人でにっこり笑った。
 「ちょっと拉致というものがしたくなったんだ」
 「拉致ってのは無理やり連れてくもんだろう?」
 土井の不思議そうな声に、鉢屋はあくまで飄々と返した。
 「ええ。ですので先生の返答は聞きません」
 そう言うや否や、鉢屋は傍らの彦四郎を担ぎ上げ、未だ机の前に腰を下ろしていた庄左ヱ門の腰を掴み上げながら、あっという間に教室から退散していってしまった。
 「え、なぁっ!?おいこら鉢屋、せめて理由だけでも言ってけー!」
 土井の叫び声は廊下を一度震わせたが、既に鉢屋と連れ去れた子供二人の姿は、曲がり角を過ぎてしまい、もはや捕らえることはできなかった。






 「これは癖になるな」
 ふぅ、と一度息を吐いて、鉢屋は満足そうに言った。担がれている彦四郎には鉢屋の心臓の音がよく聞こえたので、今鉢屋は全力で走ったのだろうな、と思った。肩に担がれていたせいで、鉢屋の浮き上がった肩の骨が腹を抉るので、大層痛かった。学習校舎を出て、鉢屋にようやく地面に降ろされても、腹はずきずきと痛んだ。
 「それで先輩、一体なんだっていうんです?」
 庄左ヱ門は脇に抱えられていたので、彦四郎ほどどこかが痛いということはないらしい。それでも手が腰に食い込んでいたのか、腰を摩っている。鉢屋は、よくぞ聞いてくれましたとでも言うように一度目を細めると、懐から一通のたて文を取り出した。
 「私と一緒におつかいをしよう」
 「・・・それぐらいだったら土井先生にお話しても良かったんじゃないですか?」
 「は組の授業というものを邪魔してみたくてね」
 「はぁ?」
 「イタズラとしては常套だろう?」
 艶やかに歪んだ口から吐き出される言葉から、悪意というものを見つけるのは困難だった。彦四郎が噴出す。は組の授業を邪魔するというのをイタズラだけで片付けられるのを笑っているのだった。
 庄左ヱ門はむっと自分の口がきつく閉められるのを感じた。クラスのことを馬鹿にされるのは嫌いだった。いくら成績が悪かろうが、問題ばっかり引き起こそうが、庄左ヱ門にとっては大切な自分の学級なのだ。一人不機嫌になった庄左ヱ門を見下ろして、鉢屋は冗談だよ、と肩を竦めた。そんな動きがまた癇に障って、庄左ヱ門はもういいです、と顔を背けた。
 悪意がないというのは厄介だ。何が悪いということを根本的に理解できていない。鉢屋は庄左ヱ門の機嫌を察して謝っただけだ。自分の何がいけなかっただなんて、本当に分かってなんかいないのだ。
 機嫌の悪くなった庄左ヱ門に、彦四郎だけが顔を青くする。委員長という割に、あまりリーダー的立場に立たないからだろう。こういう喧嘩にどう接すればいいか分からないのだ。鉢屋はにやにやとした笑みを納め、それでも眼を弓なりに歪ませた。
 「そうかい?なら自室に戻って外出の準備をしてくれ。1日か2日泊まる嵌めになるかもしれないからね。干し飯も用意しておくように。服は私服にしてくれ」
 私は先に校門で待っている。鉢屋はそう言うと、さっさと二人に背を向けて、校門の方へと歩いて行ってしまった。庄左ヱ門はその背を恨みがましそうに睨みつけていたが、冷静なのは変わらず、同じように長屋の方へと歩き出す。二人の背を交互に見やり、彦四郎は慌てて庄左ヱ門の背を追った。自分も笑ってしまったけれど、鉢屋の対応もあんまりだと思う。
 「なぁ、庄左ヱ門、あんまり気にするなよ」
 「気にしてなんかないよ。鉢屋先輩がああいう人だって、知ってるもの」
 庄左ヱ門の声は想像していたより穏やかだった。彦四郎は、庄左ヱ門が癇癪を起こしたところを見たことがないのを思い出した。
 「ねぇ、彦四郎は、鉢屋先輩のこと、好き?」
 突然、庄左ヱ門は言った。顔は真っ直ぐ正面に向けたままだったので、その後ろを歩く彦四郎から、庄左ヱ門の顔は見えない。だが、きっとぴくりとも動いていないのだろうな、と彦四郎は思った。
 「・・・好きだよ」
 勿論、鉢屋のああいう性格については良いものとは言えないだろう。だが、鉢屋は良い先輩と言うのに値する人物だろう、と彦四郎は考えている。忍としての能力や技術としては他の先輩より確実に上をいっているし、先生だって一目を置いている。頭脳だっていいし、頭の回転が速い。ああいう悪意のないイタズラも平気でやる分、無邪気で優しい所だってあった。相談だって乗ってもらったことも、数え切れないほどある。
 「僕も好きだ」
 彦四郎は、庄左ヱ門の呟かれた言葉に眼を丸くした。きっと、嫌いだって言うんじゃないかと考えていたからだった。ああいうやりとりが初めてではない分、まじめな庄左ヱ門は苛々して耐えられないものがあるんじゃないか、と。
 しかし、庄左ヱ門の言葉には、計り知れない決意のようなものが秘められているように聞こえた。ただの先輩を敬愛するだけにはどうしても聞こえない。彦四郎は思わず足を止めた。庄左ヱ門が何か、知らない生き物のように思えたからだ。
 「・・・そこが困るんだよね」
 忌々しげに、庄左ヱ門は呟く。何がどう困るのだろう。後ろを付いてくる足音が止まったのに気づいて、庄左ヱ門も足を止めた。ゆっくりと振り向いた顔は、いつものあどけない子供の顔だ。彦四郎を丸い眼で見て、「・・・どうしたの?」と首をかしげた。
 「・・・あ、いや、別に」
 「早く行かないと・・・鉢屋先輩をあまり待たせちゃ悪いでしょ?」
 「うん」
 庄左ヱ門はいつもと変わらない声音で、少し笑った。庄左ヱ門、君は・・・。彦四郎は口から唱えられない問いを舌で転がした。自分の感情に気づいているのだろうか?聞くのが怖くて、彦四郎は黙った。庄左ヱ門、君は鉢屋先輩を好いている!彦四郎は叫び出しそうになった。男同士で、というより、ただ友人が得体の知れない道に片足突っ込んでいるのを見てしまったときの不安感で、頭の中はざわざわと波打っている。
 庄左ヱ門が自分の感情に気づいていないのなら、それを鉢屋先輩は気づいているのだろうか?もし気づいていて、さきほどのやり取りを平然とするのだったら、そんなのはただの極悪人だ。後輩の心を弄んでいる。気づいていなければいい、と彦四郎は願う。
 だが、おそらく、庄左ヱ門が自分の感情に気づいていて、それを隠し通そうとしているのならば、鉢屋先輩は確実に気づいている。嘘に関して、彼以上に見極める力を持った人間は学園にいない。
 「彦四郎?どうしたの?」
 顔怖いよ、と庄左ヱ門は笑う。彦四郎は、一度うん、と頷いた。
 「鉢屋先輩って、性格悪いよね」
 「んー、そうだね」
 でも、そういうところもひっくるめて好きなんだ。庄左ヱ門は少し頬を染めた。たとえ君の思いで遊ぼうとしていても?彦四郎は聞くのが怖くなって口を閉ざした。鉢屋先輩は気づいている。確実に。
 雨雲が寄ってきている。肌寒い空気が二人の間を冷たく走っていった。庄左ヱ門の結い上げた髪が揺れるのを見ながら、彦四郎は心臓が冷え切っていくのを感じた。これから3人だけで、2日間も!先行きが不安で仕方が無かった。
2009/6・6


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