■冬来たりなば

 人差し指は唇に触れている。
 骨ばった手が、乾燥して血の滲む唇を押さえ、中指が下唇をするりと撫でる。血が紅のように唇を濡らしたが、みるみるうちに赤い粒を生んだ。
 鉢屋三郎の眼球は天井の木目をなぞっている。黒い板の間の隙間をねとりと凝視する目は、ぴたりと止まったままだ。
 何を考えているのか、庄左ヱ門は分からない。文机の上の帳面を捲れば、痛切なほど静かな室内に、しゅるりと衣擦れのような音が立った。
 そこで漸く、鉢屋は庄左ヱ門の方へ、ゆっくりと眼球を向けた。顔と手はまったく固定されたかのように動かないが、眼球だけがきょろりと蠢く。黒々とした瞳が、庄左ヱ門の俯かれた顔を見た。
 伏せがちの庄左ヱ門の瞼が、すっと音も無く開かれ、眼球だけが鉢屋を見た。視線が絡まって、数拍、音も無く彼らは視線を交わした。

 庄左ヱ門の睫毛が、微かに震えた。それをきっかけにして、鉢屋の無機質な表情が、ゆるりとつりあがった唇によって笑みを作った。
 「庄左ヱ門」
 艶やかに弧を描く鉢屋の唇が動くのを、つぶさに観察して、庄左ヱ門は顔を上げた。真正面に鉢屋を見据え、それでも庄左ヱ門は揺るがない。歌うように囁いた、自分の名を呼ぶ男を凝視して、庄左ヱ門は一度、はい、と答えた。
 「夏が終わろうとしている。今年の秋は、私から何を奪っていくだろう」
 謎かけのような言葉を一言囁いて、鉢屋は黙した。小さな瞳が憧憬に思いを馳せるように、庄左ヱ門から目を離し、格子状になっている窓枠から夕暮れに差し掛かっている空を眺めた。
 「秋が奪っていくのですか?人ではなく?」
 「そうだね。あえて言うなら時間というべきだろうか。秋は皆死んでいく時期だから」
 私もそろそろ、冬眠するべきなのかもしれない。鉢屋は目を細める。差し込む夕日の灯りに照らされて、不破雷蔵の面を被った男はそう言った。
 「鉢屋先輩が冬眠なさったら、寂しがると思います」
 「具体的に、誰が?」
 せせら笑うように鉢屋は言った。吐かれた言葉には諧謔が含まれている。庄左ヱ門は肩を竦めて言った。
 「少なくとも、僕は。秋が嫌いになりそうです」
 「だが、薩摩芋は美味い」
 冗談を言う鉢屋の言葉に同時に笑い出す。庄左ヱ門は細めた眼球の隙間から鉢屋の表情を垣間見る。鉢屋独特の、柔らかい雷蔵の顔の向こうにある自虐的な笑みを、一瞬捉えた。

2009/5・13


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