■目玉向かいの情事

 「もう嫌になるわ」
 吐き出された言葉には疲れが混ざっていた。女は漆黒の、烏の羽を彷彿とさせる濡れたようなドレスを身に纏っていた。むき出しになった肩を柔らかく包み込んでいる女の髪が、一度揺れた。肩口からはらはらと一本一本が滑り落ちると、白い肌の上に黒い蜘蛛の巣を作った。巣の主が居ないな、と思った。
 「ボスもお忙しいんでしょう」
 「それでも、連れないわ」
 なるだけ波風を立たせないように気を使いながら、それでも突き放すような言い方になってしまう言葉しか出せなかったのは否めなかったが、女は俺のことなど大して気にも留めていないのだろう、ボスの私室の暗い色をした木製の扉を見つめながら、そう言ってぱちぱちと瞬きをした。女の濡れたような黒髪と同じような長い睫毛が震え、俺の見下ろすその先で、女の瞼の裏に隠れたり現れたりを繰り返す藍色の目玉をもって俺に視線を向けた。海のような暗い目をした女は、確かに劣情で誘っている。同僚の誰かが、女はどこか暗いところがある方が魅力的だと言っていたのを思い出した。ボスもやはり俺たち同僚と大して変わらない趣味を持っているという事態に、女のことをすっかり頭の中から追い出しながら親近感を持った。
 「ねぇ、この後どうかしら」
 「申し訳ありませんが」
 予想していなかった言葉に、どう断ればいいかも分からず反射的に謝罪するような言葉を吐いてしまった。こんなのでいいのだろうか。女は大して不快には思わなかったようで、「仕事熱心なのね」と笑って言った。こんな笑い方もできるのかと、会って5分も立っていないだろうに俺は何故か女の全てを知った気分でやけに感心した。
 「じゃあ、キスしてくれない?あの人、今日、キスもしてくれなかったのよ」
 「いや・・・」
 悪戯っぽく女は笑って、ちょっと目を細めた。藍色が黒いヴェールの向こうで滲んだ。俺は唐突に、醜いと思った。
 普段なら美しいと思えるだろうに、俺は不思議と女に対して一つも好感が浮かんでこなかった。冷たく柔らかな女の手が俺の手に触れた瞬間、反射的に腕がびくりと痙攣した。女は一段と目玉の奥で俺を冷笑した。
 「怖いの?」
 「いいえ」
 「怯えた顔をしているわ」
 女は笑っていたままだった。女がゆっくりと俺に身を寄せてくると、噎せ返るような花の匂いがした。寄せられた体がやけに冷たいと思った瞬間、俺の唇に女の口が押し付けられた。舌は入ってこなかったことに、俺は酷くほっとした。この女がもしも悪魔ならば、俺はこのあと口から命を吸い取られるんじゃないかと思ったのだ。馬鹿馬鹿しい考えだったが、逆に俺は女のキスの幼稚さに逆に驚いた。まるで子供同士の初めての口付けのようだった。いやに柔らかい女の口が離れても、俺はどうすればいいか迷った。指先で口を触れてみたが、幸いなことに女の口紅はついていなかった。家族達に何を言われるかわかったものではないからだ。
 「いやだった?」
 女は笑った。何故か、新しく仲間に入った子供のことを思い出した。あいつが悪戯をする顔に似ている。
 「いえ、別に」
 「じゃあ、嬉しかった?」
 俺は言葉に窮した。ボスの愛人である女は、「素直ね」と噴出すように囁いた。最後まで笑い続けていた。子供のような人だと思う。
 そのとき、俺は彼女の手首に傷が走っているのを見た。自殺癖でもあるのかと思ったが、彼女の傷はわざわざ太い血管に傷をつけない様に、ささやかに赤い線を走らせていた。既に傷は塞がっており、まるで赤い糸でも手首に結んでいるのかとも思えた。白い象牙の肌に一本、奔っている傷がやけに記憶に残った。俺は彼女のことを忘れても、この傷は忘れないだろうと思った。
 「傷が」
 俺は思わずそう口走ってしまった。女は「引っかいたの」と笑みをやけに深くして答えた。
 「それじゃあ、さよなら」女は笑いながら、ヒールの音を高く鳴らして俺に背を向け扉から出て行った。すぐに静寂になった廊下から、俺はボスへの裏切りをしてしまったかのような気分になって、逃げるようにその場を後にした。廊下を曲がると、先ほどまで考えていた少年が立っていた。俺の「なっ、」という引き攣った声と、骸の「わっ、」という驚いた声が二重奏を奏でた。俺がテナーで骸がボーイソプラノだった。
 奇妙な二重奏を奏でたあと、すぐさま骸が頭を下げて、「ごめんなさい、ランチア」と謝罪の言葉を口にした。俺はそれどころではなく、気配に気づけなかったことによる驚愕で、骸が何について謝罪しているのか理解できず、「なに?」と再び聞き返した。
 「あの、ランチアを探してて・・・話しかけられなくて」
 おろおろと視線を彷徨わせながら言葉を捜す骸に俺は何をそんなに焦っているのだろうと思いながら、先ほどのボスの愛人とのやり取りを唐突に思い出した。「あ」俺は子供にやばい所を見られたことに対して酷く衝撃を受けた。何をやっているんだ。骸に見られるぐらいならばまだ噂好きの同僚に見られたほうがマシだった。
 「いや、その、すまない」
 俺は何故か謝った。
 骸はおろおろしながら、「あの、変なこと聞いてごめんなさい」と呟いて、「あの女の人、好きなんですか?」と俺に問いかけてきた。
 「違う、さっきのは」
 「じゃあ、何で、あの人とキスしたんですか?」
 ああ、完璧に見られている。俺は言い訳の言葉もすっかり忘れて、ただただ途方に暮れた。俺のせいで骸が将来どんな人間相手にもキスしてしまう酷い人間になったらお前のせいだぞランチア!心の中で己を罵倒して、頭を覚ますために一度目を閉じ、深呼吸をして骸と向き合う。骸は何か考え込むように自分の唇に小さな指先を添えて、窓の外を見ていた。
 「・・・どうした?何かしたか」
 「、いえ」
 骸は困ったような笑みを浮かべながら、それでも唇に指を添えていた。先ほどの光景を見てキスが気になるのかもしれない、と思った。確かに、年頃の少年なら異性とのキスぐらい気になるだろう。骸は俺の怪訝そうな顔に弁解するかのように慌てて口を開いた。
 「いえ、別に、大した事じゃないんです。それに、さっきのはなんだか、あの女の人が無理にやってるみたいでしたし、ランチアは女の人の頼み、断れないでしょう」
 さり気なく酷いことを言われたが、骸はやけに笑顔のまま、俺の手を握ってきた。先ほどの女が握り締めていた俺の手はやけに温度が冷めていたが、骸の手の方が冷たかった。女の痕跡を無くすかのように骸の手がきつく俺の手に絡みつく。「みんなとサッカーしましょうよ」骸はあの女のように悪戯っぽく笑って言った。俺は女の顔を思い出そうとするが、あの不自然な傷だけが思い浮かんだ。ナイフで切った傷ではなく、針のようなもので引っかいたようなものだった。本当に引っかいたのか、と思いながら、俺はやけに笑顔の骸を見下ろし、そうだな、と答えた。
2008/4・15


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