■また会えぬ過去にさよなら
 じわじわとかしましい虫達の声を聞きながら、お胡夷はぼんやりと空中に視線を這わした。湿っぽい空気が夏の熱を孕んでやけにむしむしとしている。静かに暗く淀む空気の中、隣から風が吹いてきたのに気づき、ごろりと体を反転した。障子は閉まったままだが、布団の横に座り込む男がいた。風は、男が扇ぐ団扇で作り出されたものらしく、お胡夷が体を逆向きにすると驚いたようにぴたりと止まり、しかしまた何事も無かったかのように動き出す。
 「・・・あにさま?」
 「おお、悪い、起こしてしまったか」
 左衛門はお胡夷の床のすぐ横に腰を下ろし、小さく苦笑していた。手に持った団扇が空気を押し出す度、お胡夷の汗の浮いた体が優しく冷めていく。気持ちいい、と思いながら、暑さで疲弊した体を起こすことが考えられず、ぐったりと寝転がったまま己の兄を見上げる。
 「お休みにならないのですか?」
 「何、こうも暑いと禄に休めん。しばらく起きて扇いでやるから、お前は早く寝なさい」
 それを言うなら私だってそうだ。お胡夷はがばりと身を起こし、「ならば私が扇ぎますゆえ、兄様がお休みになりなされ!」と身を乗り出した。左衛門は驚きながらも団扇をさりげなくお胡夷から遠ざけ、お胡夷と逆に座ったままずるずると後ろに後退する。
 「何を言い出すか。儂は寝ようと思えば寝れるわ。それに、お主は明日、形部と猪狩りに出かけると言うておったではないか。早く寝ねばならんだろうが」
 「それとこれとは話が別で御座います!兄様が起きているというのにこのお胡夷、のうのうと寝こけているわけには参りませぬ!」
 堂々と言い放てば、気圧されたように左衛門が黙る。蒸し暑い空気は喋っていても沈黙しても変わらず、ぬくぬくと2人を包み込んだままだ。
 暑い空気のせいもあるだろうが、緊張か声を張ったせいか、じとりと汗が首を伝った。暑い。
 「・・・どうせ眠れぬならば兄様、2人で涼みに参りませぬか?気分が良くなれば寝つきもようなるかもしれませぬよ?」
 この空気を打破するためにも、お胡夷は「2人で」というのを強調して言った。断るならば左衛門が寝ればいいだけで、己は言ったように外へでていけばいいだろう。扇ぐ相手もいなければ眠るしかない。
 お胡夷の申し出に左衛門は一瞬沈黙し、「ふむ、それもよいか」と納得したように頷いた。そうとなれば話は早い、とお胡夷は手早く布団をたたみ、さぁさぁと左衛門を外へ促す。障子を開ければ一層虫の声が強くなった。
 その代わり、夜になって冷えた風が2人を包んだ。しかし微温湯に浸ったかのような温度は変える事ができないので、申し訳程度に団扇をはたいて風を途切れないようにする。
 「ついでに散歩でもするか」
 「・・・本格的に寝る気がないんじゃな・・・」
 浴衣のまま里の中を徘徊するのは憚られたが、左衛門が向かった先が里内ではなく山中のようだと分かり、お胡夷は肩を竦めながらもその後を追った。夜番の忍に暑くてかなわんから散歩に行って来る、と簡単に告げ、提灯を受け取り二人きりで山中へと分け入る。夜行性の獣がいつ出てくるか分からないが、二人居れば万が一も無いだろうと思い、2人の歩みは鈍い。
 「どちらへ行かれますか」
 「川の方まで行ってみるか。水辺の方が空気が冷たい」
 左衛門の持つ提灯の灯りを頼りに、辺りに注意を払いながら街道を進む。ざわざわと蠢く木々は何か生き物のようにも見えて、お胡夷は知らず知らずのうちに歩みを速めた。
 「なんじゃ、怖いか、お胡夷」
 笑みが含まれた左衛門の声にびくりと肩を震わせ、お胡夷は身を翻して先ほどまでは前に居たが、いまや隣に居る左衛門へと食って掛かった。灯りに照らされた左衛門の顔は案の定にやにやと笑っている。
 「そんなことはっ・・・!?」
 反論しようと口を開いた瞬間、左衛門の左手がお胡夷の右手を握り締めた。
 「儂がおるじゃろう。そう不安になるでない」
 「あ、えっ・・・申し訳のう御座いますっ?」
 唐突な兄の行動に顔を真っ赤に染めながら、蒸し暑いというのに兄の手を離せず、むしろ逆に握り締め、お胡夷はぐるぐると混乱する頭を冷静にしようと躍起になった。これではまるで子供ではないか。
 しかし、意思とは裏腹に左衛門の手が酷く愛しく、大切なものである気がしてならず、お胡夷は言葉を無くしながら幼い頃左衛門の手を握ってどこでもひっついて歩き回っていたのを思い出していた。今や見上げていた兄の背を優に越えているというのに。
 情けない。いつまで経っても私は兄様の前では童のままだ。
 「おお、見よお胡夷」
 「へっ?」
 熱気と驚愕によって周りが見えなくなっていたお胡夷は、突然かけられた左衛門の声に悲鳴染みた声を上げ、ぱっと顔を上げた。
 驚嘆した兄の声に導かれるままに正面に視線を移せば、目当てとしていた川へといつのまにか到着していたようだった。黒く影となった木々の隙間から見える川は月光を反射しててらてらと刃のように光っている。
 そしてそれ以上に光を放っているものがあった。その小さな無数の光は川の上を踊るように飛び交う。
 蛍だ。
 「来たかいがあったのう」
 にこにこと笑う左衛門はいらぬ光は邪魔だとでもいうように、持っていた提灯の灯りを吹き消した。唐突に訪れる暗闇の中、一層明るく飛ぶ蛍の群をぼんやり見ながら、お胡夷は楽しそうに笑った。
 「暑い上に虫が煩わしくて嫌な日だと思うておりましたが、今日は善き事が二つも御座いました、兄様」
 「なんじゃ、一つではないのか?」
 不思議そうに己を仰いでくる兄に微笑みかけ、お胡夷は「いいえ、二つに御座います!」と元気に断言し、左衛門と未だ繋いだままの手を意思を伝えるかのようにぎゅう、と握った。
 「馬鹿な娘じゃ・・・」
 呆れたように、しかし満更でも無さそうに肩を竦めて左衛門は苦笑し、こんな娘を嫁に貰う男がいるだろうか、と心の中で溜息を吐いた。いたとしても、こんな可愛い妹を素直に他の男に渡せるだろうか、という意味も、片隅で思いながら。
2008/4・2


TOP