■アイシールド21 log2

誰も居ない教室は例えるのならばマルコの心を表したかのようにがらんどうで、誰も席についていないくせに整然と並べられている机と椅子が、空っぽのそれを今以上に冷たく瞳に映した。
交わされる会話は無く、マルコは己の席にもつかずに教卓の右側、黒板の前の段差に腰掛て、峨王の方も見ずに黙って己の指先を眺めていた。その視線は何の感情も溜めることなく流水のように澄みきり、10本のその長く白い手の甲から生える指に注がれ、峨王はマルコが何を考えているかも汲むことができず、結局黙ってそれを見下ろし続けた。
明日から始まる地区予選について考えているのかもしれない。ボールを投げるこの指に何か痛みでも齎されているのか、そんな身体的な異常は当人にしか測れないだろう。マルコが痛みも嘆くことなくボールを投げ続ければ、それに気づかない俺達は黙ってゲームを続行することしかできない。明日からの歯止めのきくことの無い、下手をすれば怪我人を何人も出す結果に終わる試合をついに目前として、感傷的になっているのかもしれない、と峨王は一人で納得した。人間らしからぬ表情のみを曝すこの男相手にはそれぐらい夢をみさせてくれてもいいのではないかと思った。
もしも試合に負けたら、こいつは泣くだろうか。悲しむだろうか。少しだけその表情を拝みたくて、不謹慎にも負けたことを想像する。
マルコはその少しの揺らいだ雰囲気に気がついたかのように己の指先に注いでいた視線を外し、それを見下ろす峨王を見据えた。
冷え切ったブルーは冷酷しか映さない。
「何を考えてた?峨王」
楽しそうな声音が唇に乗せられた。困ったような顔に見える普段のその顔は、薄暗い教室の中で微かに微笑んでいるようにも見えて、峨王は小さく言葉を失う。
一拍遅れで峨王から吐き出された台詞は、静まり返ったがらんどうの教室に響く。
「お前の惨めな泣き顔を」
「俺を泣かせたいのかよ」
その言葉はけして咎める風には聞こえない。むしろ楽しさを含ませて、まるで空気のように教室を振るわせる。
己の前では惨酷なほど冷えきっては澄み渡る、透明な蒼の王者は、峨王の心を読むかのように瞳の奥で嘲笑う。
先程までその視線を一身に受けていたその細い右手についている五つの指が翻るように峨王のネクタイを掴むと、屈め、と命令するかのように軽く下へ引っ張られた。
「何だ」
「勝つためのお呪いだよ」
囁かれた言葉に怪訝な顔をしながら、峨王は跪く。マルコの頭部と丁度背丈が同じぐらいになる所で、マルコは峨王の頭を掴むと、その見開かれた右目に唇を寄せた。
目に近寄ってきた紅に反射的に目を閉じようとするも、突然だったせいか間に合わず、峨王の右目はマルコの舌に嘗め上げられた。
舌先で押し込められるようにすれば生まれついての恐怖心によって身が竦んだ。それにマルコが軽く肩を震わせながら笑い、つるりと瞼を引き上げるほど深く口付けられる。目玉を口で抉り出されるかもしれない、などこ恐ろしい考えが頭によぎった瞬間、マルコの舌が峨王の右目から離された。
慌てて目を覆い、残った左目で怒ったようにマルコを睨むと、にやりと悪役のような嫌らしい笑みで口角を吊り上げ、その口元の隙間から峨王の眼球を嘗めた舌をちらりと示す。
馬鹿にしているのだ。峨王は瞬間的に殴りかかりそうになるのを理性で止め、いらついた様に立ち上がる。けらけらと笑ったマルコがなんともあどけなく、先程峨王の肝を冷やさせたとは思えないほどにこやかに台詞を舌へ転がした。
「お前でも、怖がる事、あるんだな」
「性質が悪ぃんだよてめぇは」
「・・・・お前は勘違いしてるようだけれど」
マルコは先程と一転して、例えるのなら子供を諭すかのような神妙な口調で、峨王を見上げて微笑む。
「完璧に勝てる人間ってのは―――負けようとしても、負けない人間のことを言うっちゅう話」
「――――こっちの台詞の方が、呪い、だろう」
なんとかひねり出した台詞に、もう既に目玉に舌を這わしたことが何のためだったかを忘れていたマルコを二秒後に笑わせることとなる。

 心を埋めるのは純粋な枯渇、捨てた感情の座らない座席 2007/10/10



「どうして勝ちたいの?」
彼女はどうでも良さそうに聞いてきた。きっと本当はどうでも良く無いだろう。先程まで血まみれで退場して行った敵チームを悲痛な目で見送っていた彼女だ。
今すぐにでも俺の胸倉掴み上げて罵倒したいのだろうけれど、無理やり感情を押さえつけて、彼女は切なそうに囁いてきた。
「どうして勝ちたいの?」
同じ質問を、珍しく繰り返してきた。本当に理解できないようだ。
俺はその言葉には深く答えなければならないだろうと思って、少し黙った。彼女は感情を篭らせない目で俺を見ていた。
「負けたい人間なんていないっちゅう話」
単純明快な答えを一応言ってみると、彼女は「ここまでのことをしてまで手に入れてまで、負けたくないの?」と哀しそうに聞いた。
「他人を捻じ伏せたくなるのは人間の本能だよ」
「私はもう嫌よ」
彼女は本音を吐いた。今更、なんて純粋な絶望を吐いてくれるんだろう。一瞬で彼女が脆弱に見えて、俺は反射的に彼女に対する希望を捨てた。
ああ、彼女も何も分かってくれないのだ。
「お前がもう嫌でも関係ねぇよ」
自然と引き攣るその声音も、はっとして俺を見てくる彼女の視線も。
「マネがいなくったって俺達は機能し続けるさ。分かってるんだろう?だから一緒についてきたんだろう?もうやめるのか?」
彼女は怯えるように俺を見る。俺は緩やかに笑みを作って、彼女を噛み砕く。
「もう、止まらないんだよ」
彼女は口を開き、結局音を発せず瞼を閉じた。見たく無いならそれでもいいよ。

それでも悲鳴も血肉の匂いも、彼女を悔やませる。

 どうしてと零れるその愚問、貴方の失笑 2007/11/03



無意識、なのか。
峨王は心の中で思いながら、己の手首に唇を押し付けてくる男の軽く俯かれた顔を上から見下ろしていた。
口付けされている場所がもしも手の甲ならば、今まで業とらしくこの男に言い寄られたかもしれない女と同じ光景を見るのかもしれないが、(例えるのならばあのマネージャー、とか)マルコが口付けをしているのは皮一枚隔てた向こうに太い血管を通している内側の手首だ。浮き上がった血管の凹凸に緩やかに乾いた唇を這わせながら、マルコがのんびりと口を開く。
「手首太ぇなぁ」
お前が俺より細いだけだろう、と口走りそうになったが、今の所己より太い手首の人間は数名しか見たことが無かったので、それは反論されそうだと口を閉ざす。それに、筋肉関係の話題を出すのは、この男相手には億劫だ。
当たり前に、先程の台詞はどこか楽しそうでもあり、どこか羨ましそうでもあった。女タラシでいたいのならば、自分のようにならない方が良いと思うが、そんな心情はこいつの勝手だ。力が云々の話ならば、こいつはこいつで力がある。
今度は手首に舌を這わしてきた変態を見下しながら、(さて、こいつを好いてる女共がこの情景を見たらなんと叫ぶだろう!)(どうせ悪者にされるのは俺だろうが)その伏せられた瞼や、長い睫毛、色白の肌にかかる柔らかな髪を観察する。
ああ、分かった。こいつがどうして今までこんなにも、人に対して頭を垂れる姿が様になっているのか。
(―――――見下したいの、か)
恐怖を味合わせることのできる力を持つ人間を己より卑下にしたいのは人間の本能だ。世の年上の女どもが、只でさえ高校生という子供に見下ろされるのは嫌なのだろうな、と思う。
苛めたい、とか。
(くだらねぇ)
きっと本能で知ってるから、いつもあんな困ったような顔をしているのではないかと思えると、マルコの性格の悪さに辟易したような気分になった。しかしそれが元々かどうかなんてのは実際は分からない。もしも演技だとしてもここまで板に着くのはそれはそれで凄いのだろう。
まだ嘗めてくるマルコの首を、今まで力を抜いていた手で素早く掴むと、伏せられていた青い目が音も無くこっちに向けられた。練習で擦り剥けてしまった手首は皮が剥けて赤く変色していたが、マルコが嘗めていたせいでふやけて周りが白くなっていた。何をしている、と目だけで睨むと、困ったように笑ってくる。
「いつまでやってんだ」
「悪い悪い」
全然謝る気が無いらしい。力を込めれば首を折れるかもしれないこの状態でも、マルコはただにこにこと笑い続ける。真の底から己を信じきるかのように真っ直ぐ向けられる両目にどっと肩が疲れるような錯覚に陥るが、どうせ何があろうとこの手に力を籠めることはできないんだろう、と気づいてしまうと、全てがどうでもよくなった。
「・・・俺はいつもお前を見下ろしてるぞ」
「へ?」
だから、女のようにお前を捻じ伏せたい病気になんざ、かからん、と心の中ではっきり言い渡し、何の話なんだかさっぱり分かっていないマルコを放ってグラウンドへと出て行く。空が既に暗く落ち、小さい星が無数に広がっていた。それでも、別に星を己の下に落としたいという気は全然湧いてこなく、やはりこれはマルコが相手だからだろうか、などと自分がやはりあの男を気に掛けてしまっていることが如実に分かり、怒りにも似た気持ちが脳を埋めていくのが分かった。

 劣情の硲で 2007/11/21
2007/12・29


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