■ブログ短文集
 
■綾部とちょっと金小

太陽と土のにおいがします、とよく金吾に言われた。別に金吾が毎度毎度七松の腰に両手を命一杯広げて抱きついてくるわけではなく、金吾のくすんだ前髪を見つけた小平太が、どこででも金吾を抱き上げるから、よく、と評されるのだが。
小平太はそんなことを言われても、「ふうん」としか答えられなかった。太陽と土の匂いってどんな匂いなんだろうか。小平太はよくわからない。
そもそも、土の匂いというのは、なるほど分かった気がしないでもないが、太陽に匂いなんてないだろうと思うのだ。太陽は呆れるほどに遠い。近づいて嗅ぐには少々難しい所があるというのに、だ。
金吾は容易く「太陽の匂い」という。どんな匂いなんだ、と聞いてみても、「胸が一杯になるような匂いです!」と良く分からない答えを返された。胸が一杯になる匂いっていったら、食堂のおばちゃんが作るたきたてのご飯のような匂いだろうか。自分からそんな匂いがするのは、それを食べた直後ではないのかと思うのだが、金吾はどんな時だって「太陽の匂いだ」といってきかない。その匂いが嗅ぎたくて、一時期暇な時間を利用してそこかしこを嗅ぎまわったものだが、結局見るに見かねた長次が小平太の首根っこをひっつかんで、室内に戻し、力ずくで寝かしつけてやった。(少々打撃を加えて気絶させたという方が近いかもしれない)
小平太はよく評される二つの匂いのもう一つ、土の匂いを肺一杯に吸い込んで、今日も楽しく塹壕掘りに勤しんでいる。進路もまともに決めぬまま、暴走するかのように穴を掘った。掘り出された土が軟らかくなって足元に溜まる。ふと、突き進んでいた穴が誰か違う人間の掘った穴と繋がった。悲鳴混じりにその穴を掘っていた紫色の影が叫んだ。
「ター子が犯された!」
人聞きの悪いことを白昼堂々言う奴である。小平太はまだあどけなさを残す美丈夫を見下ろし、「嫁入り前の娘は大切にしなければならんぞ」と自分でもおかしな程胸を張って言った。普段から突飛なことばかり喋る綾部喜八郎は、「七松先輩は悪漢です。ひどい男です。鬼畜です。めがねです」と意味の分からぬことを散々喚いて、ぴたりと動きを止めると、突然静かになった。
「小平太先輩こんにちは」
「よお」
遅い挨拶であったが、綾部のその口ぶりからして、まったくこの会話はおかしくないようなものであると思えた。小平太も段々、綾部の会話が楽しくなってきていた。にんまり口元を歪ませて、この男ならば、明確な答えを示してくれるかと思い、先日から気になっていたことを聞いた。「綾部喜八郎」
「はッ、なんでしょう七松小平太先輩!」
ノリのいい男は大好きだ。
「太陽の匂いとはどんなものだか分かるか?」
「ははぁ、太陽ですか。例え悪いことを仰いますね」
綾部は大げさに両手を上げ、少し思案すると、抱きつくように七松にぶつかった。両手でがっしりと七松の背に手を回す。七松は驚いて反射的にその手を跳ね除けようと思ったが、予想以上に綾部の腕の力が強いことに驚いて、一瞬動きが鈍った。
「七松先輩の匂いですね」
綾部は言った。だから、自分の匂いが自分で分からんのだ。
「だからわからないんですよ」
綾部は明朗な答えを発すると、失礼します、と陵辱された己のタコ壷をそのままに、軽く地上へと上がってしまった。
「・・・うん?」
私が太陽の匂いなのは分かっているが、その太陽の匂いが分からなくて、分からないのは自分の匂いだから・・・?
ぐるぐるぐる、と思考を一周させて、ようやく意味を理解してから、小平太は己の腕に鼻を押し付け、その匂いを嗅いだ。
土と汗と、暖かな匂いがした。これが太陽の匂いだろうか。小平太はまだわからなかった。



■伊鉢

少し釣りあがった瞳は、伊作の級友を髣髴とさせた。伊作の級友である食満留三郎の鋭い目つきは、後輩達の中では恐怖の対象となっている。特に同じ委員会の富松作兵衛などが恐れているのは、食満を除いて有名な話であった。
しかし今三郎の目の前にいる男のなんと温和なことか。少し釣り目の大きな瞳は扁桃の形に似ていて、くせのある髪の毛は柔らかそうに波打っていた。
「匂いが付くから、ここに来るのは嫌じゃなかったのかい」
伊作は少し微笑みながら、乳棒で粉末をさらに潰した。壁を背にしてじっとその姿を凝視していた鉢屋三郎は、不破雷蔵と同じ造りをした顔面を優しく緩め、「嫌ですよ」と囁くような声音で言った。恐ろしいほど優しげな声は、不破雷蔵の呆れてしまいそうな慈愛をまるっきり写したかのようである。伊作は内心舌を巻きながら、平常心を保たせ、混ぜ合わせた粉末を別の乳鉢に移した。
「怪我も無いのに、何をしに来たんだい?お得意の変装も、薬品の匂いが染み付いてしまったら誰にでも気づかれてしまうよ」
「伊作先輩に変装すれば誰だって気づきませんよ」
そう言うやいなや、三郎の顔は伊作の顔を写したかのように変貌を遂げていた。三郎が先ほど観察していた大きな扁桃型の双眸が、じっと伊作を見た。伊作はきゅっと唇を噛み締め、おどける後輩を睨んだ。伊作の顔をした鉢屋三郎は、睥睨するような顔で伊作を見た。
「僕はそんな目つきしないよ」
「それは失礼しました。でも善法寺先輩、自分が今までしたことのない顔がどんなものかお分かりになられるんですか?」
わざと、馬鹿みたいに丁寧な口調で三郎は言った。唇は伊作を嘲笑うように歪められている。
「そう言われると返す言葉が無いな」
「でしょう?」
三郎は大層楽しそうに笑った。伊作も釣られたように口元に笑みを浮かべた。悪戯に成功したことを喜ぶ後輩を静かに見つめて、心から愛するような柔らかな声音で、伊作は諧謔を含んだ言葉を吐いた。
「しかし君は保健委員ではないから、僕になりきることは一生無いだろうね」
「なんですって?」
笑みを消し、憤りを浮かべた三郎を、今度は伊作が嘲笑った。まるで馬鹿にしている雰囲気をまったく見せない、完璧な優しさがあった。
「きっと助からないであろう死に掛けの人間が目の前に居たときに、全力を持って助けようとする愚か者が僕。そしてその人間を思って苦しまぬよう一撃で葬ってあげるのが君だ」
伊作はより笑みを深くして言った。その笑みはけして三郎を嘲笑っているのではない。むしろそれは自嘲の笑みであった。
「僕は忍びに向いていないし、君は忍びでありそして天才だからね」
凡人は天才になれるだろうが、天才は凡人になれないのだよ、と伊作は三郎を慈しむような声で言った。乳鉢を脇に避けた伊作の優しい両手は、自分への侮辱を甘んじて受け、それに自ら堪えるように、きつく握り締められている。
なんて無様だ。鉢屋はあっというまに顔を不破雷蔵のものへと変化させ、体にしっかりと匂いが染み付く前にと、逃げるように保健室を後にした。伊作の言葉のように、保健室特有の消毒液の匂いが、すでに三郎の神経を犯しはじめていた。



■その薄っぺらな防護壁(金小

ひた、と己の未熟な掌が、思いのほか簡単に男の胸板に触れたのに驚きながら、金吾はこれからどうすればいいか分からず、掌を微かに震えさせ、その上「ええと」、と無様極まりない声さえも出してしまった。
小平太は何も言わず、幼い武士を見下ろし続けている。どっかりと胡坐をかいて板間に座る小平太は、深緑色の制服を脱ぎ、黒い袖無しの前掛けを身にまとうだけで、一枚という無防備な防御だけが金吾の掌を拒絶していた。
「七松先輩」
「うん?」
金吾は、小さく鳴いた。甘えるような囁きを過敏にも拾い上げ、小平太は優しく、大きな掌で金吾の頭を優しくなでてやった。そこからもう、金吾はどうすればいいか分からず、うう、うう、と唸るだけになってしまう。じっとりと汗ばんだ掌が、前掛け越しに小平太の体をなぞった。
「金吾はどうしたい?」
「どう・・・」
「私をどうしたい?」
金吾は一度口を開き、すぐに閉じた。じぃじぃと蝉の声が姦しい。死んでしまう!しんでしまう!と短い命の限りを叫んでいるようだった。
「金吾」
「七松先輩は」
金吾はもごもごと言った。僕にどうしてほしいですか。
「口を吸って」
小平太は幼子に向かって指導する教師のように、冷淡に言った。言われたとおり、金吾が今まで教わったとおりに一度立て膝になって小平太に顔を近づけ、ゆっくりと唇を押し付けた。口内に舌を入れるものではない、ただ肉と肉とあわせあうだけの行為は一瞬で終わり、金吾はぺたりと再び小平太の前に座る。
「これから?」
「金吾」
小平太は、顔を真っ赤にして未熟ながらも小平太に無様に興奮する少年を静かに見やって、これ以上はいけないな、と優しく、しかししっかりとした声で言った。
「ななまつせんぱい」
「だめだ」
金吾は自分の不甲斐なさを呪いながら、小平太を見た。身を乗り出してくる金吾を、だめだ、と再び宥めてくる男に、口を吸うだけ、口を吸うだけなら許してくれるでしょう、と金吾は甘え、きんご、と困り果てた低い男の声を飲み込むように、目の前の薄い唇に噛み付いた。



■庄鉢

鉢屋は忍たまの友に走り書きされた自分の字を改めて見直して、汚いな、と思った。変な癖字なのだ。眠い時に書いたせいで、ただでさえ片寄った書き方の文字がさらに歪んでいて、鉢屋はひとりでげんなりした。同級の者たちよりは字は上手い方なのだが、(むしろ彼らは文字の偽造は得意な方である。忍として他人の筆跡を真似る術はすでに習得済みだ)いかんせん癖字だけはどうにもならない。外での任務ならまだしも、授業中にわざわざ他人の筆跡を真似るほどまで集中して文字を書く事などないのだ。
うねった墨の軌跡を眼で追いながら、ちらりと目の前に行儀良く座る庄左ヱ門の忍たまの友を盗み見てみれば、そのなんて綺麗なことか。鉢屋は知らず知らずのうちに唇を奇妙に歪ませていた。
「どうしました?」
「いや、なんでも」
庄左ヱ門の黒く丸い瞳が鉢屋を映した。その瞳が表す感情が純粋な敬意のみであることに、鉢屋は一人で気を悪くした。普段ならばむしろ心地いいはずの後輩の視線が、少し僻みを持つだけでこんなにも心苦しいとは。
庄左ヱ門は不思議そうに鉢屋を見つめ、そして小さく首を傾げた。鉢屋の先ほどの「いや、なんでも」が気に入らなかったのだろう。「何か悩みがあるんでしたら、聞くぐらいはできますよ。鉢屋先輩に的確な助言をすることは難しいですけど」と10歳にしては立派すぎる台詞をしゃあしゃあと吐いた。
ああ、なんて大人な子なんだろうか。字の汚さで一喜一憂する自分のなんと無様なことか。鉢屋はむしろ挑むように、いや、なに、自分の癖字が気になっていただけだよ、とむしろ開き直った口調で言った。庄左ヱ門は、はあ、と納得したのかしていないのか中途半端な声をあげ、そして小さく微笑んだ。
「可愛いですね、鉢屋先輩」
「ふむ、褒められているのかな」
「可愛いがけなす言葉だと思いますか?くの一に怒られますよ」
少なくとも君の本心ではあるまい。鉢屋はそう言おうかと思ったが、もしもこれで、冗談じゃないです、と返されたら自分はなんと反応すればいいだろう。顔を赤く染めて恥らえとでも言うのだろうか、馬鹿馬鹿しい。
「鉢屋先輩、可愛いですよ」
庄左ヱ門はくすくすと肩を震わせて言った。からかわれているのだ。鉢屋はあっさりと負けを認め、冗談交じりに声を山本シナ先生のものへと変えて、「お上手ねぇ庄左ヱ門」と言ってみたが、庄左ヱ門はただくすくすと笑い続けるだけだった。



■庄鉢

コタツの中で触れ合った足の指が冷たくてびっくりした。
鉢屋先輩は身を竦めた僕に柔らかく微笑んで、何事もなかったかのように笊の中に盛られているみかんを一つ手に取り、裏側に指を突っ込んで丁寧に剥きはじめた。
「自分が認識している以上に、楽しい時間っていうのはあっけなく過ぎていくもんだと思うね」
「はぁ」
鉢屋先輩は几帳面にみかんの白い筋を取り除きながら、いい加減な返事をした僕を悪戯っぽく見た。「今年、沢山楽しいことがあったけれど、そんなに沢山って気分ではないんだよ」僕はその台詞を聞き流しながら、鉢屋先輩が暗示している、本当に僕に言いたいことを頭で探る。鉢屋先輩が言うには、言葉の中に孕んでいる本当を理解しなければ、言葉はただの音にすぎないらしい。
「この前、図書館で読みましたよ。時間間隔の狂うことが、感情に起因するとかって」
「そう。だから嫌なことばっかり長く感じて覚える」
鉢屋先輩は不敵に笑いながら、手にこびり付いた白い筋を、指同士こすり合わせることで何とかとろうとして、しかし結局諦めたのか、指を放置してみかんをぽいと口に放り込んだ。
「じゃあ、僕と一緒に居る時間は短かったですか?長かったですか?」
「短かったなぁ」
しみじみと鉢屋先輩は言って、ちょっとだけ笑った。どうやら言いたがっていることを少しは汲めたらしい。短かった、というその返事が、僕と一緒に居る時間が楽しかったのか、それともただ単に短かったのか、僕は察知しきれなかった。(僕と鉢屋先輩はもちろん違う学年なので(鉢屋先輩とは年齢が4つも違うのだ)本当に会う時間が少ない。休日は学友の人達とほぼ遊んでいるから、高校と大学一貫しているうちの学園内での委員会活動ぐらいしか会うことはない)(今日のように何もない日に相手のアパートに転がり込むことなんて片手で数えれるぐらいだ)
「不破先輩達と一緒に居る時間と、どっちが短かったですか」
「そりゃ、庄左ヱ門だろ」
どうやら、時間の方らしい。あからさまにがっかりしてしまった。鉢屋先輩は「あいつらとは毎日会ってるんだから、短いか長いか比べることなんてできないだろ」とみかんを全部食べ終わると同時に、あっさりと言った。僕はそうですね、と返す。どうしても、納得しきれないのだ。嫉妬?馬鹿な。不破先輩達と、鉢屋先輩の関係と、僕と鉢屋先輩の関係はまるっきり違うのだ。例え同じだとしても、土俵がまったく違う。
「僕と不破先輩達と一緒にいる時間、どっちが短く感じます?」
「庄左ヱ門」
溜息混じりに名前を呼ばれる。呆れられているのだ。当たり前だ。僕と不破先輩達と、どっちが好きか、なんて意味なんだから。
「じゃあお前は、二郭とか彦四郎とかと一緒に居る時間と、私と居る時間、どっちが短く感じるんだ?」
「・・・・・・はい、すみません」
自分で自分が嫌になる。不貞腐れたような声になってしまった。テレビから零れる、たどたどしい生中継のお笑い番組の声が五月蝿い。
「鉢屋先輩、初詣、不破先輩達と行くんでしょう?いつ出て行くんですか」
「お前だって3組の連中で行くんだろ?」
「あ、いや、ちがいます。そういう意味じゃなくて」
どうやら早く行ってくれという感じになっていたらしい。僕はただ単に同じ時間に出ようと思っただけだった。鉢屋先輩は僕の答えを見越してか、「11時半」と短く答え、新しいみかんに手を伸ばした。
「お茶でも飲みますか」
「ああ」
僕はこたつから出て、戸棚の急須に手を伸ばす。茶葉を入れていた缶が見当たらずうろうろしていると、鉢屋先輩が手早く食したみかんを口に頬張ったまま、指先をこすり合わせて、「庄左ヱ門」と突然呼んできた。
「はい?・・・そんなに気になるなら手洗ったらどうですか?」
「うん。なぁ、来年は一緒に初詣行こうか」
「え」
動揺しすぎて漸く見つけた缶を落とした。ぶちまけた茶葉。どっちに反応すればいいか困る。
「え」
「まずそれ片付けなよ」
苦笑いしながら鉢屋先輩が言った。なんでそんな、唐突に。
「無理にとは言わないが」
「いえ、いえ、行きます。行きましょう」
「来年ね」
くつくつと肩を震わせながら笑って、鉢屋先輩は固まった白いみかんの筋を取るために、まだ指をこすり合わせていた。これから鉢屋先輩にみかんを食べさせる時は、お手拭も用意しないといけないんだな、と僕は一人で考えた。
2009/1・3


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