■ブログ短文集
 
■庄鉢

目の前にあった幼い子供の、折れてしまいそうな細い首を見下ろして、鉢屋は先日殺めた女のことを思い出した。
線の細い華奢な女で、うなじから肩甲骨にかけての筋がとても美しかった。顔は童顔で、18になるそうなのに、己よりも幼いのではないかという顔つきで、部屋に突如現れた鉢屋を、くるくると栗鼠のような黒々とした目玉でじっと見ていた。
「どなたですか」と問われたので、「貴方を殺しに来た忍のものです」と答えれば、少し笑って言った。「私を殺してくださるのですか」女は童女のように笑った。くすくすと。ひたすら、おかしそうに。
「庄左ヱ門、髪を下ろすよ」
「はい」
女装の実技があるのだと相談してきた後輩は、鉢屋の前で背中を向けて、正座をしたままとんと動かない。足を崩してもいいのだけれど。そう思って、やめた。元結を抜き取れば、肩口までのざんばらな髪が滑り落ちた。細い首を鉢屋の視界から奪う。
元結を持つ手が、震えた。恐ろしいのか?何が?何が恐ろしい?
恐いものなんてあるのか?幻を見せて人の背筋を凍らせるのは、忍の得意技だろう?
「すみません、鉢屋先輩。お時間をおかけして」
「いや、構わないよ。むしろ後輩にこういうことに頼られて、嬉しい限りさ」
髪の毛に櫛を通せば、まるで姉妹のようだとも思った。細い首に少し手の甲が触れると、夏の暑さのせいか、じとりと汗が浮かんでいた。
あの女は、そういえば、恐れていただろうか。再び脳裏を過ぎるすでに死んだ女の影を瞼に映し、一度梳き、小さく笑った。
『私を殺してくださるのですか』
「ありがとうございます」
「うん」
自ら心臓を鉢屋に曝した女の幻影を振り払いながら、鉢屋は小さく頷いた。庄左ヱ門に向けての返答だったのか、それとも瞼から離れない女への返答だったのか、鉢屋には到底理解できなかった。



■久々鉢

「字が上手い」
唐突に、机を挟んだ向こう側から吐き出された言葉に、一瞬反応が遅れ、「うん?」と変な声を上げて頭を上げれば、鉢屋は無表情で俺の帳面を見ていた。
「字が。上手い」
「上手いかぁ?ああ・・・まぁ、竹谷とか雷蔵よりかは、綺麗に書けてるかもな」
ろ組のこの男は、毎日のように彼らの悲惨な帳面を見ているから、そう思うのではないかと思った。竹谷なんぞは半分船を漕ぎながら帳面を取るものだから、字が上手いか下手か云々の前に、その文字を分断する黒い線をどうにかしなければならないだろう。雷蔵も、見た目からして几帳面そうに見えるというのに、本性は驚くべき大雑把な男で、帳面も読めればいいのだ、としか考えていないのだろう、なんとも簡単な殴り書きだった。
そんな2人の帳面と比べれば、己の帳面なんかは綺麗に見えるはずだろう。別に字を書くのが得意だと思ったことは無いし、目の前の男こそ、それこそ己が美しい字を書く者を挙げよと言われれば真っ先に挙げる男である。以前の合同学習の時、共に行動したときのこと、商人に化けたこの男が帳面に名を書くとき、それはもう流れるような文字だったと記憶している。
お前って、結構丁寧にものを書くんだな。雷蔵のように読めればいいというものだと思っていた、と己が洩らせば、鉢屋三郎は失笑しながら、「字なんか。綺麗にも汚くも、書けるよ」と肩を竦めながら答えていた。確かに文字で変装がばれることもあるかもしれない。それは鉢屋三郎が自ら学んだ処世術の一つだったかもしれないし、または学園に入学する前から、変装の名人だという父親に学ばされていたかもしれぬ。そのときはどちらでもいいかと思っていたが、実際のところ、自分は鉢屋の秘密を知りたかった。それは友人としての、好奇心であったかもしれないし、子供ながらの勘違いした恋心かもしれない。
しかし事実、自分の鉢屋への入れ込みようは少し通常と違うと自負している。天才に心奪われたのやもしれない。それこそ、秀才と言われた己に相応しいだろう。
劣等感か。それとも、栄光に縋りでもしたいのか?心の中で己を嘲笑えば、目の前に座っていた鉢屋が、目だけでにやあ、と笑った。あまりにも丁度いいタイミングに、ぎょっとして手が止まった。帳面に黒い大きな点を作れば、「あ、」と間抜けな声が口から出る。途端、げらげらと鉢屋が笑い出した。
「そんなに綺麗でもないかもな」
「ああ、くそ、三郎の馬鹿野郎」
筆から垂れた黒い墨の塊は、あっという間に紙面に飲み込まれ、淡々と書かれていた文面に終着を定めた。鉢屋はじっと紙面を眺め、もしかしたら、いつか俺の変装をするときのために、俺の字の特徴を捉えているのかもしれない。と、思えば、黒い点を指差して、「お前のようだ」と鮮やかに笑った。
「間抜け面をしている」
黒い点のどこが間抜け面なのだと思ったが、いや、どうにも滑稽でならない。ああ、確かに間抜けだ。目の前の男が笑っただけで、こんなに動揺して、しかもこんなにも心臓が煩い。



■ぼろぼろに剥がれ落ちる(鉢と雷

「私が死んだらお前は泣くか?」
暗闇のなかに吐き出された言葉は、一瞬寝言かと思ったが、鉢屋のいう『お前』が己を指しているであろうことを察し、不破は静かに「泣くとも」と答えた。
りぃ、りぃ、と障子越しに鈴虫の鳴く声が耳まで届く。小さな衣擦れが脳を支配し、ぬくぬくとした布団によって眠気が到来するも、鉢屋も不破も、静かに相手の言葉を聞き取るために息を潜めた。
「私が死んだら悲しいか?」
「悲しいとも」
「私が死んだら寂しいか?」
「寂しいとも」
輪唱のように繋がる言葉に、鈴虫の鳴き声はけして水を差さない。ふっと暗闇の向こう、背を向け合った向こう側で、鉢屋が小さく息を吐いた。少し笑うように息を吐けば、ふふふ、と不破も続けて笑った。
「私が人を殺したら、泣くか?」
「泣かないなぁ」
「私が人を殺したら、悲しいか?」
「悲しくないなぁ」
「私が人を殺したら、寂しいか?」
「寂しくないなぁ」
「私が人を殺したら、嬉しいか?」
「嬉しくないなぁ」
まるで鏡に問いかけるように暗闇に霧散する言葉に、鉢屋は口を緩め、「ああ、なんてお前はいい奴なんだ」と泣きそうな声で優しく懺悔する。
「君をからかってきたいままで全ての日の君に土下座したいぐらいだ」
「今更気づいたのか。君にしては鈍い」
「まったくだ。私の感も鈍ったものだ」
「死ぬなよ」
「死なんとも」
「帰ってきてくれ」
「もちろん」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・眠ったかい、鉢屋」
「いいや。起きているよ」
「ああ・・・・・・・無事でいろよ」
「きっと」
「ああ・・・ああ・・・」
「不破。泣いているのか」
「泣いている」
「私が死んでもいないのに、泣いているのか?おかしな奴だ」
「何故だろうか・・・とても悲しいんだ。そして、凄く、寂しい。ああ・・・・もしかして、君はもう死んでいるんじゃないか?」
「何故そう思う?」
「人を殺めた人間が、誠に生きているわけがないんだ・・・死人だ。生きながらにして、死んでいるのだ。死を知ってしまうんだ」
「君は詩人か?」
「ああ・・・・・・三郎、お願いだ・・・どこにも行かないでくれ・・・私たちは、友達じゃないか」
「そうだ」
布団の中で涙を流す不破に、鉢屋は小さく笑った。確かに鉢屋三郎は、死んでいる。明日からの鉢屋三郎は、今までの鉢屋三郎じゃいられないだろう。
そんなことをそっと想像して、鉢屋は柔らかく口を歪めた。
「はちや・・・君はまだそこにいるのか?」
不破の問いに答えはなく、一度障子が開かれ、鈴虫の声が一層騒がしくなれば、少しして再び障子が閉じられた。鈴虫の声は途絶え、引き攣った一人の子供の泣き声が室内に留まっていた。



■思った

鉢屋と不破は手を繋ぐ。肩を寄せ合う。抱き合う。一緒に眠る。髪を結いあうことだってあるし、喧嘩だってするだろう。酒に酔えばことの弾みで口を吸いあうことだって無きにしもあらずだし、相手のためになら危険なことにぐらい手を出す。だが彼らは褥を共にすることはきっとないし、愛を囁いたりだってしない。
というのがうちの方針。



■久々鉢

「お前が好きだ」
唐突に吐き出された言葉には血が混ざっていた。息は荒く、底冷えした冷たさによって吐く息は白い。はぁっ、と吐き出された熱い吐息が、そんな言葉と一緒に吐かれて、鉢屋は小さく笑った。
「なんだ、いきなり」
「鉢屋三郎が好きだ。好き。結婚しよう。愛してる」
「そういうの、戦場で言うと死亡する可能性が格段に上がるらしい。お約束って奴」
まるでおあつらえ向きのように二人は戦場から逃走してきたせいで、頭から足の爪先まで真っ赤であった。水分を含んだ衣服は重く、死臭に塗れて仕方が無い。久々知の肩を抱き上げたまま、鉢屋は意地悪く笑った。
「そういうことは、もっと真剣に話し合えるところで言ってくれ」
寒さはまるで針のように二人の体を貫いていく。ぶら下げられた久々知の手から、ぽたりと白い雪を汚して一滴の血が落ちた。
「好きだ」
「ありがとう」
「好き」
こいつ、話聞いてるんだろうか、と鉢屋が肩にもたれかかる久々知の顔を見れば、く、と久々知は唇を歪めていた。笑っているのだ。
「お前が好きだ」
「おい久々知、狼煙だ。助かるぞ」
「鉢屋」
重い体を寄せ合って、久々知はしつこく言った。
「好きだ」
「豆腐よりも?」
「もちろん」
鉢屋の軽口を一笑して、久々知は瞼を閉じた。薄氷の寒空の下、白い煙が立ち昇っていた。母の葬式のときも、あのように真っ直ぐ煙が上がっていたなぁ、と久々知はおもった。
「死ぬな、鉢屋」
「どっちかっつーと、お前の方が重症なんだけどね」
2009/1・3


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