■9S log1

 真っ白い研究所の一室、父親が彼女へ与えた部屋は、少女に不釣合いなほど純白で、かつ広々としていた。
 部屋の中には3台のコンピュータ―――しかし少女の父が作ったものなので、そのコンピュータは一般的に「コンピュータ」と定義されるとものとまるで格の違うものなのだが―――が配置されており、その他には変な所は特に無いが、少女が眠るには流石に 大きすぎると思われる大人用の質素なベッドと、そして唯一黒い大きなソファのみがあった。
 その黒いソファの上に、その部屋の主である少女が一人、ぽつんと座っている。どうやら小さな声で何か途切れ途切れに歌っているようだった。特に己で出す歌声には気を配らないらしく、しかし注意しなくとも、少女が無意識に起こす行動には失敗など欠片も起こらないので別に良いかもしれないが、部屋の唯一の出入り口を落ち着かないようにちらちらと見ていた。
 何度か立ち上がり、自らその扉を開けようとするのか、体が偶にぴくりと痙攣するように動いただけで、しかし勢い余って右足だけが床についたりなどしてしまうと、己の起こした行動に自分から畏怖するかのようにまたその小さい体を縮こまらせ、大きすぎるソファに全身を乗せることを繰り返す。
 それを繰り返すこと35回目。時間に変えれば1時間ちょっとという程か、扉が開き、向こう側から白いスーツの男が入ってきた。
 「お、とうさん」
 ぱっと嬉しそうに頭を上げると、少女はぱたぱたと男に走り寄った。白い帽子を目深に被った男は異様に楽しそうな少女を見下ろし、「どうした」となんでもなさそうに尋ねる。
 「ね、ね、きて」
 ぐいぐいと、男の純白のスーツの袖をひっぱり、どうやら一つだけつけたままにしたコンピュータの前に連れて行く。男は連れて行かれたとおり、コンピュータの画面を見、黙ったままその画面に表示された理論とそれに関しての少女の立てた構築式を全て確認しながら見終える。
 「できた、よ」
 えへへ、と笑顔で見上げてくるあどけない少女の笑みを一瞥して、男は小さく口元に微笑を浮かべると、「よくやった」と少女の頭を一度だけ撫でた。
 「えへへへ」
 男はそんな少女を、一瞬だけ眩しそうに目を細めて見ると、コンピュータの横に置いてあった、先程まで少女に貸していた資料を片手に取り、ゆっくりとまた、扉に向かって歩き出した。
 「由宇、ご褒美に今日の勉強は休みにする。・・・外にでも遊びに行っておいで」
 「・・・・・・・あ、でも、おとうさん、私は、おとうさんと・・・・・・」
 おとうさんと遊びたい、なんてそんな小さな願い事は、すぐに少女の喉奥にひっこんだ。大きな憂いを湛えた目が、振り返ったままの男を映して、そしてすぐに視線を逸す。
 外にでも遊びに行っておいでという言葉が、父の研究の邪魔をするな、という意味だと悟ったからだ。
 「うん・・・・・・・わかった。夕方になるまでに、帰る」
 「・・・ああ、怪我をしないように気をつけなさい」
 男はうつむいた少女に何かを言いかけたが、しかしそれでもすっと視線を逸らし、その一言だけ言い残すと扉の向こうへとまた消えた。
 「・・・・・・・、」
 扉が閉まる瞬間、少女は息を詰めたように口を開き、しかしもう閉まってしまった扉の音に、また口を閉じた。
 「・・・でも、外でも、遊ぶ人なんて、いないよ・・・」
 小さな呟きは、誰に聞こえるでもなく、ただ白い部屋に溶けた。

 2007/9/23 峰島勇次郎 峰島由宇 (9S



 矮小な存在というものを人間は本当に認識できているのだろうかと、ふと零についての公式を考えていると思いついた。公式はそのまま考えながら、紙の上に走らせていたペンで人の絵を描く。元から己が絵の上手い人間だと思っていなかったのでそこの歪さには目を瞑り、その形を凝視する。人間の形を見るなんていつ以来だろうか。
 卑小や矮小や、日本には色々な言葉があって良い。色々な技術面において各国から遅れを取る日本だが、元々の言語においてここ以上択一した会話を選択できる国は珍しいだろう。この国で唯一愛せるものはそんな言語と日本食ぐらいだろうかと思った。
 愚かさはどうにも救えない。考えることを放棄するのは人間として生まれてきた生物としての罪悪だ。使えない脳味噌があるのならば人間よりも尊い生物にその人間に使われる全てを提供した方がまだ使えるのではないだろうか。実際やったこともないが、しかしそんな精神論は己の範囲外だ。峰島勇次郎がただ追い続けるのはそこにありうる真実のみ。
 ふと、置いてきた己の娘に思いを馳せた。彼女も人間に絶望しているのだろうか。いや、そんなことはしないだろう。あの娘は彼女に似て聡明だ。ただの天才でしかなりえなかった己とは違う。
 一つできた零の累乗の公式が紙を覆って、落書きを潰した。ひしゃげた人間は文字の羅列に埋もれる。
 あの娘は絵はうまいのだろうか。歌はうまいのだろうか。楽器を弾くのは、文才はあるのだろうか。
 兄弟を欲しいと思うだろうか。姉妹が欲しいと思うだろうか。友が欲しいと思うだろうか。
 母が欲しいとおもうだろうか。祖父や祖母がほしいと思うのだろうか。いつかは夫を持ち子供が欲しいと思うのだろうか。

 ――――――まともな父親が欲しかったと思うのだろうか。

 その思いは唯一の誤字を産んだ。凡人には到底理解できないその文字の羅列達に誤字が生まれようと解読できなければ関係ないだろう。勇次郎はどこを間違ったのか分からないその一単語をペン先で黒く塗りつぶした。その隣に、もう一度数式を書き込む。
 別に書き込まずともいいのだ。どうせ覚えているのだから。ただそれは暇潰しだ。いつか己の娘が己の数式を目にとめることがあれば、綺麗な字で伝えたい。
 世界に発表すれば世界を震撼させるかもしれないその数式を薄っぺらいコピー用紙に書きながら、峰島勇次郎は夢想する。
 休日に家族で買い物に出かけたいと思ったりするのだろうか。遊びたいと思うのだろうか。いつかは反抗期とかいうのになって、己の衣服と共に洗濯物をするのを厭うようにもなるのだろうか?
 勇次郎は思う。思考する。その全世界の全ての人間に口を揃えて「天才だ」と言わしめるその頭脳を持って。ゆっくりと、既に邂逅する気も無い唯一の娘を思う。
 世界の全てを理解することを可能にするその脳髄ではけして測ることのできない、知らなさ過ぎる唯一の救いの少女を。
 知らず知らずにもう一度落書きしていた人間の形をしたそれは、また中途半端に歪んだまま立ち竦んでいた。完成すれば世界が確変を起こすかもしれないその数式のイクォールの向こうに。
 人間の形をした落書きの頭部に位置する場所をぐるぐると黒く塗りつぶし、そして峰島勇次郎はゆっくりと瞼を閉じた。
 寝なくとも問題が無い体を手に入れる彼の形をもってして、意味の無い行動を起こす。
 緩やかな吐息のみが残ったその室内は、設定されていた通りか10秒後に明りが消えた。暗澹が室内を包み、数式の羅列の書かれたその大量の紙類が室内に崩れ落ちたが、そんなものに興味は無いのか、峰島勇次郎は惰眠を貪り続けた。

 2007/12/15 峰島勇次郎



 「よう馬鹿野郎」
 「やあ」
 部屋の中にずかずかと入ってきた真目不坐は、その室内に唯一居た人間を目に留めてにやりと笑った。男は扉に向かい合う形でソファに座っており、嫌なほど似合うスーツに身を包んでいた。白い帽子を室内でも目深に被っているせいでその表情はしっかりと見ることはできないが、その口元がどうにも詰まらなさそうに真一文に閉じられているのは確認することができた。
 「ほんとに逃げずに居たんだな、峰島勇次郎」
 不坐はにやにやと笑いながらぞんざいに勇次郎と対峙する形で向かいのソファに腰を下ろした。和装の大男と洋装の細身の男が対峙している時点でそこは異様な雰囲気があふれ出す場所へと様変わりしたが、この空間を異常にしているのは天才・峰島勇次郎に他ならないだろう。体にぴったりな白スーツを着こなす天才は、足を優雅に組んだまま、「逃げる?」とその言葉が唯一引っかかったのか肩を竦めながら冷笑した。
 「逃げるわけが無い。まず私にとって逃げるなんて行為は何もしないことと同意義にも等しいからだ。逃げるなんて選択肢が存在するならば私はこんな所まで来はしないし、そもそも君らに会うことすらしなかったさ」
 「まったくお前の言うことは一々面倒くせぇな。素直に「逃げるのは癪だったから」とか言えよ」
 勇次郎はその言葉に対して反論したそうにかすかに口を開いたが、既に不坐と一回会話をしたことによって不座という人間の思考回路や発言や思想は本人異常に看破していた。次に来る言葉も予想済みだったので、下らない応答に飽き飽きして口を閉ざした。
 「聞かねぇのか?何でお前を家に招待したか、とかよ」
 「聞く意味が無い」
 不坐の言葉をその一言で切り捨て、勇次郎はやれやれと首を振った。理由も既に分かっている。聞くだけ時間の無駄だ。そもそもこれからの会話の内容も分かるのだから会話の意味が無いのだ。勇次郎は本当にどうして己がこんな所にまだいるのか分からなくなってきたので、そっちを分析しようと瞼を閉じた。
 「お前よぉ、会話ってもんを知らねぇのか?」
 「知っているさ。だが意味の無い応答は会話する必要性もないと思わないのか?不坐、あんたは私と鳴神尊を戦わせないことに対して私が疑問を持っているのではないかと思っているんだろう?私が君の思っている全ての疑問に答えるならばそれだけで済むんだよ。まず今日血統者はここにいないことを私は知っている。そして今日君が私を呼び寄せたのは私に聞きたいことがあるんだろう?だから警備の連中も全員下がらせている――――まぁ私に警備がどうとかなんて関係ないが。私に聞きたいのはクレールというあの女の覚醒の仕方だな?言っておくが私が言ったのはただのアドバイスだ。私が君の想像するように危ない『私の遺産』とやらを使って脳を弄くるなんて無粋なまねしたと思ってほしくは無い。それに私は今までだってこれからだってあんな女に一々殺戮兵器にしたてあげるまねなんてしない」
 勇次郎はそこで言葉を切った。言うことは全て言ったと判断したんだろう。確かに、不坐が聞きたかった疑問は解かれたが、ただ一つまだ解かれていない疑問があった。
 「もう一つ聞きてぇことがある。峰島」
 「私がここに易々とやってきたのは」
 峰島勇次郎はそれこそが己の疑問かと答えが導き出せ、徐に立ち上がった。
 「紅茶がグライムスのアールグレイだったからだよ」
 「・・・ああ?」
 勇次郎が言ったのはフランスで有名な紅茶メーカーの名前だ。紅茶、と不坐がふと視線をテーブルの上に乗せられたティーカップに移し「ふざけんな」と言おうと頭を上げればすでに峰島勇次郎の姿は無く。
 「・・・・・・・紅茶を飲むためだけに一時間も車でここに来たってかぁ?」
 頭がいかれてる人間ぐらいしかできないその行為に、ただ不坐は顔を顰めた。

 2007/ 12/30 峰島勇次郎 真目不坐
2007/12・30


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