■空が人を喰った



 鉢屋三郎だ、と誰かが言って、思わず顔を上げた。その日は驚くほど暑い日で、空なんて憎らしくなるほどの晴天だった。遠くに馬鹿でかい入道雲が見えたから、小平太辺りがそれを追いかけて山の一つや二つ越えて行ってしまうかもしれない、なんて考えた。
 俺達の授業は教員が急な会議が入ったとか行って、鐘がなるより早く終わった。この後は教室に戻って自習になるわけだ。伊作が脱水症状にならないように、熱中症にならないように、と一人せっせと水を運んでくるもんだから、途中から俺も手伝った。先に他の奴らを教室に戻して、俺と伊作は二人で水を母屋の前に撒いた。これで少しは涼しくなるかもしれない、と伊作が提案したからだった。
 教室に行ってもどうせ暑いだろうし、それならまだ外に出ていたほうがいい、と伊作が言って、日陰で二人でぶらぶらしていた。そんな時だった。目の前を6年ろ組の連中が、ぞろぞろと教室に向かって歩いて行った。どうやら教員の会議とやらは6年生の教員に共通するものだったらしく、顔見知りの奴が俺達に、よぉ、と声を掛けながら、井戸の方へ向かっていく。その中で一際背の高い長次が俺達を見つけて、無言でやってきた。相変わらず仏頂面で、汗で衣服が張り付くのが不快なのかとも思うが、別にこいつはいつもこうだったな、と思うと、なんと声をかければいいか分からなくなった。伊作が濡れた手ぬぐいを渡すと、更にむすっとした顔をして、体を拭きながら俺達の座る隣に腰を下ろした。
 「小平太は?」
 「――――授業がないなら―――山に行って来ると言って、」
 「はぁん」
 「大丈夫かなぁ」
 伊作がはらはらと遠くの入道雲を眺めた。蝉の声が木霊していて、酷い大合唱だ。そして、その時だ。長次に手を振りながら一足先に帰っていくろ組の連中の一人が、ふと、一言洩らした。鉢屋三郎だ、と。
 促されるようにそっちを見れば、斜め向かいの日陰になっている中庭で、鉢屋三郎が何か拳法のようなポーズを取っていた。だからといって誰かと対峙して、これから組み手でもするようにも見えない。両足を大きく開き、腰を低く下ろし、両手を前後で真っ直ぐ伸ばしている。しかし、バランスがいい格好とはいえ、鉢屋三郎の体はぴくりとも動かない。まるで絵のように一つの風景の中にぴたりと張り付いているように見える。じわじわと泣き叫ぶ蝉の声と、風で揺れる木々が無ければ、そこで時間でも止まったのかと錯覚してしまうぐらいだった。
 「何だあれ」
 「見たことがある」
 ぼそぼそと囁かれた声は長次の口から零れた。
 「唐の拳法の一つだ。本で見た」
 「ふぅん」
 鉢屋三郎は動かないかと思えば、微かに唇を動かした。どうやら影になっているところに誰か違う人でもいるらしい。何か会話をしているのか、少し言って止まり、もう一度口を動かす。だがその動作も口だけが切り離された何かのように、体はまったく動かない。
 ぼんやりと見ていると、鉢屋は伸ばした腕を滑らかな動きで横薙ぎに回した。と同時に足も動かす。体一つが何か一つの流れに導かれているかのように、音も立てず、一度飛んだ。そしてしなやかな動作で再び足をつけると、もう一度、一体何が起こったのか理解できる暇もなく、一番最初の格好に戻った。どんな動きをしたのか、頭が追いきれなかった。ぼんやりとそれを眺めていると、鉢屋三郎はゆっくりと体を直立不動の体勢にして、両手を合わせ、建物の方に礼をした。一体どういう意味があって、どういうことなのか分からなかったが、とにかく、美しいものだ、と思った。伊作も、なんだかよく分からないけど凄いねぇ、と間抜けとも取れるような感嘆を上げた。
 「伊作、それでは阿呆丸出しだぞ」
 「仙蔵」
 ふと後ろから掛けられた声に振り向けば、手ぬぐいを肩にかけて悠々と歩いてくる立花仙蔵と潮江文次郎の姿があった。伊作が用意していた水の入った桶に勝手に己の手ぬぐいを浸すと、伊作の隣に腰を下ろし、ぐいっと首や腋の汗を拭った。
 お前らもか、と聞けば、私たちもだ、と返される。仙蔵は汗を拭いながら、目を細め、再び建物の影で不思議な動きをゆっくりと、しかし滑らかな動きでやってみせる鉢屋三郎を見た。
 「拳法指南書とやらを私も読んだことはあるが、なるほど、ああいう動きをするのか」
 「合ってるのかい」
 「知らん。だが読んだものを思い出す限りでは、間違ってるとも言い切れん」
 「にしても、あいつはどうやってあんなもん覚えやがるのか」
 仙蔵の隣にどかっと腰を下ろしながら、潮江が言った。手ぬぐいで顔を拭いながら、授業で解れたのか一つに結い上げている髪を解いた。ふん、と仙蔵は鼻を鳴らし、「天才さまは頭の作りが違うのさ」と呟いた。
 「なんだ、珍しく喧嘩腰」
 「仙蔵は鉢屋が嫌いか」
 「そういうわけではない。私は大して他人に対して好悪の情を持たん」
 「だが気に入らんようではないか」
 「当たり前だ。天才が好きな凡人は居ないと私は思っている」
 仙蔵はにんまりと口を歪めて、俺を見た。むっとして睨み返せば、馬鹿にするように嘲笑われる。その時、かーん、と空に抜けるような鐘の音が鳴った。授業が終わった合図だ。仙蔵と潮江は自然な動作で二人同時に立ち上がり、伊作に礼を言ってから、さっさと校舎へ戻って行ってしまった。伊作は桶に入った水を思いっきり乾いた地面に撒き散らすと、桶を置いてくると言って行ってしまった。置いてくる、ということはここへ戻ってくる、という意味だ。黙って座っていると、隣に座っていた長次もまったく動く気配が無いことに気づいた。
 行かないのか、と問おうと思えば、長次はじっと一点を凝視して何かを待っているようだった。鉢屋のことでも見ているのかと思えば、そっちはどうやら正門の方らしい。同じようにそっちを見ていれば、大柄な男がこんな暑い日だというのに全力疾走してくるのが見えた。頭の先から足の爪先まで土塗れだ。一直線に突っ込んでくるかと思えば、長次の手前で素早く停止する。
 「行ってきたぞ!」
 「見れば分かる」
 長次はそう言うと、持っていた手ぬぐいを小平太に渡した。自分が使っていたものではない、まだ新品のようなものだ。どうやら小平太のものを預けていたらしい。戻ってきた伊作が、やぁ小平太、と挨拶をするよりも、うわぁ、君何やってるんだい、怪我とかしてないだろうね?っていうか早く水でも浴びてきなよ、水分取ってる?と矢継ぎ早に聞いた。小平太は相変わらずはっはっは!と快活に笑って、頬についた乾いた土を手の甲で拭った。
 ふと気がつけば、建物の向こうから授業を終えた5年ろ組がぞろぞろと歩いてくるところであった。件の鉢屋三郎とまったく同じ顔をした不破雷蔵が、長次を見つけて素早く声を掛けてきた。
 「こんにちは、中在家先輩」
 長次は、隣に居た俺にしか聞こえない声で、小さく、ああ、と呟く。不破と一緒に居た鉢屋、竹谷が、俺、伊作、長次、小平太に挨拶をした。
 「やぁ。君たちも脱水症状とか熱中症とか気をつけて、ちゃんと水分取るんだよ」
 「大丈夫ですよ。俺達、さっきの授業ほぼ座って鉢屋とか先生とか見てただけなんで」
 「座ってただけっていっても、気をつけないといけないよ」
 竹谷が笑って言うのにも、厳重に伊作が注意する。俺は思わず鉢屋の方を見ていた。その視線を受けてか、鉢屋は挑むようににやっと笑って見せた。
 「いえ、接近戦等と組み手の練習をしてたんですよ。その見本に抜擢されまして」
 「ふぅん、鉢屋って凄いんだなぁ」
 感心したように小平太が言った。仙蔵辺りが言えば嫌味にしか聞こえないのだろうが、小平太の台詞は完璧に心からの賞賛だ。鉢屋はどうもありがとうございます、とにこやかに答える。
 「うん、僕らここで見てたけど、綺麗なもんだったよ。武芸とか得意な奴はやっぱり凄いね。羨ましいよ」
 「お前、すぐ衣装踏むしな」
 「そりゃ僕の衣装ばっかり糸が解れてるからっ・・・!」
 前の神楽の授業なんてなぁ、と伊作の不運話を持ち上げれば、ちょっとやめてよ、と伊作が情けない声を上げた。先輩の話だとはいえ不破も竹谷も笑いを堪え切れないようだ。後輩に恥を暴露されたせいか、伊作は慌てて屯している5年生を井戸へと追いやった。ついでに小平太も、深い藍色に混ざって汚れを取るために井戸へと向かった。ふと、どさくさに紛れて鉢屋が俺の隣に突っ立って居る。お前も行けよ、と俺が言おうとした瞬間、鉢屋はあまりにも悪意たっぷり、といったふうに顔を歪めてみせる。
 「食満先輩、俺に見惚れていたでしょう」
 うかつにも言葉を失って、目を大きく見開いてしまった。これでは肯定しているのと同じようなものだ。鉢屋はまた、悪意がふんだんにあしらわれたような笑顔で俺を見下す。
 「ん、なわけねーだろ。自惚れてんじゃねぇよ」
 「白昼堂々俺のこと視姦してたくせにぃ」
 しっ・・・!?と俺が言葉に詰まると、鉢屋はげらげらと哄笑して、いやぁ、名物コンビは面白いなぁ、などとほざきながら、先に行ってしまった5年の連中を追いかけて行ってしまった。
 「名物コンビ・・・?」
 俺が不審な声を上げると、隣でぼんやりと空を見上げていた長次が、ぼそりと呟く。
 「潮江と、お前。名物喧嘩コンビ」
 「・・・・?はぁ?!てめっふざけんな鉢屋ぁ!」
 不名誉すぎるコンビ名をぬかしやがった鉢屋の背に怒声を浴びせれば、あっははは、と人を喰らったような笑い声が、呆れるほど蒼い空に吸い込まれていった。あんな奴を一度とはいえ美しい、などと思ってしまったことが屈辱だ!
 全部この暑さが悪いのだ、と一人ぼやけば、違いない、と珍しく長次が言った。微かに頬が引き攣っていて、どうやらこいつも俺と同じく、熱のせいで鉢屋に一杯喰わされたらしい。鳴り止まない蝉の声が、俺達をげらげらと哄笑しているように聞こえた。
2009/8・10


TOP