■嘘吐き男の末路



 濡れた手ぬぐいを絞れば、たっぷりと含ませていた水がびちゃびちゃと大きく音を立てて大石に落ちた。すぐに表面を伝って落ちていくその変色して黒くなった後を目で追いながら、ぐいぐいと顔を拭った。
 汗によって疎らに解けてしまった変装を少し拭い、素早く懐から取り出した肌色の白粉を塗る。肌に馴染ませ、鬘の状態を丁寧に直した。先ほどまで顔に貼り付けていた行商人の顔を作っていた化粧は布に張り付かせ、そのまま丁寧に畳み、背負っていた沢蟹の入っている籠に引っ掛ける。仕上げに爪の間に入れておいた土をこそげ落とし、用意は万端だ。最後に懐から取り出した白地に藍で唐草模様の入った手ぬぐいで頭を縛り、一つに結い上げた雷蔵のものである髪の毛を丸めてその中に押し入れた。
 「よし!」
 籠を背中に引っ掛け、鉢屋三郎は早々に川原を後にした。石に垂れた水滴は、太陽の光を浴びてかんかんに熱くなった石によって、すでに乾き始めていた。






 五年ろ組に今回出された課題は、指定された屋敷に忍び込み奪った文を、各々割り振られた場所で、顔の知らない相手に文を渡し、無事目的地まで送るというものだった。文を渡す相手は見知った同級の徒ではなく、六年生に渡すことになっている。誰に渡すかというのは教えられていない。桂男と穴丑を利用した、秘密裏に密書を渡す実戦課題だった。
 鉢屋は今朝方、あっという間に指定された屋敷から密書を奪ってきていた。天候も影響していた。用心深く月が隠れる時間帯を狙って、教師陣でさえ見事と言わざるを得ない手並みであった。今回だって私がきっと一番最初だろうと、鉢屋でさえ思った。むしろ彼にとって一番以外の順位に立たされるなど自尊心が許さないだろうが。
 指定された時刻、指定された場所に鉢屋はまったくぴったりに向かった。町外れの一件の茶屋だ。小さな赤い幟が立っていて、腰の曲がった背の小さい老人が経営していた。
 鉢屋は雷蔵の顔から今度は年の若い、血色のいい好青年に変装していた。背のしゃんと伸びた、人懐こい顔つきをした男だ。肌の色は浅黒く、毎日熱心に畑仕事を勤しむようである。
 鉢屋は勤めて明るく、老人に「こんにちは、暑いねぇ、おやじさん」と声を掛けながら、表に置いてある長椅子に腰掛けた。老人は、へぇ、へぇ、と頷きながら、水を用意し、鉢屋が団子を頼むまで小さな体をひょこひょこさせながら待った。老人が奥に引っ込んで、鉢屋は手ぬぐいで汗を拭いながら、注意深く辺りを探った。そうしていると、新しい客が来るのには時間は大してかからなかった。
 やってきたのは、編み笠を深く被った虚無僧だった。ざり、ざりざり、と片足が引き摺るように地面を擦っている。猫背で、しゃんと背を伸ばせば大層背も高そうなのだが、そのせいで少し陰気に見える。虚無僧はゆっくりと茶屋の前にやってくると、深々と茶屋の前で黙礼した。奥に引っ込んでいた老人が、おお、よくいらっしゃいました、と言いながら少し急ぎ足でやってくる。鉢屋も慌てて立ち上がり、そそっかしい若者らしく、少し深すぎるぐらい頭を下げた。虚無僧と鉢屋の影が、一度重なった。次の瞬間、二人とゆっくりと体を上げ、鉢屋は一歩下がる。老人は、持ってきた冷たい水を虚無僧に差し出した。
 「おお、お疲れ様で御座います。いや、まったく、暑いなか大変で御座いますねぇ、へぇ」
 虚無僧は編み笠の中、くぐもった声でぼそぼそと喋ると、老人に促されるがまま茶屋の中へと引っ込んでいった。少しして、老人が出てきて、先ほど頼んだ団子を鉢屋に持ってきた。
 「ん!うまいなぁおやじさん」
 「へぇ、そう言って貰えると嬉しいねぇ、うふふ」
 老人はそう言って顔を皺くちゃにしながら、鉢屋がぺろりと平らげたあとの皿を手早く片付けた。鉢屋は残りの水を飲み干し、それじゃあ、そろそろ帰るかな、とぼやき、また来るよ!と茶屋に手を振り、颯爽とその場を後にした。懐は密書の重みを無くして、大層軽くなっていた。






 街道を外れて山道をのろのろと歩いていると、正面から突然人が現れた。ほっかむりを被った、農村にどこにでも居そうな顔立ちをした体格のいい男だった。おや、と鉢屋が一言洩らすと、男の方も、ああん?と声を上げた。鉢屋は一度俯き、顔に貼り付けていた先ほどの農村の青年の顔を剥がし、普段の不破雷蔵の顔を手際よく顔に貼り付けた。今更鏡を見る必要も無い、手際の良さだ。そうして顔を上げると、先ほどまでの男も姿を消し、同じ格好をしているが、そこに突っ立っていたのは忍術学園でちょっとした有名人である潮江文次郎である。数秒沈黙を保ったまま、にやりと二人で思わず笑った。
 「ちょっと休んでいこうぜ。どうせその様子だと、全部終わったんだろ?」
 「潮江先輩は?」
 「今終わったばっかしだ。竹谷の野郎が・・・いや、その話は休みながらにしよう」
 そう言って文次郎が指し示したのは近くに流れている小川の辺だった。鉢屋も体に張り付く化粧や汗を拭おうと思ったので、促されるがままにその背を追った。
 小川の近くにいるだけで涼しい気分になるから不思議だ。魚も住めないような小さな川だったが、小さな沢蟹がちょこちょこと歩いている。手ぬぐいを水につけ、色黒に見えるように塗った化粧を拭い、野良仕事をするように見せるため、衣服についた泥を素早く取り払う。一連の動きを観察しながら、文次郎は担当だった竹谷の失敗談をつらつらと語った。曰く、忍び込んだ屋敷で飼っていた犬を躾けてしまって、時間を食ったらしい。馬鹿な奴だ、と鉢屋も思わず笑ってしまう。
 「まったくあいつは、課題中だということを覚えてるんだろうか?以前も聞いた気がするぜこういう話。あいつ、動物が関わるとなんでも首を突っ込むのか?」
 「多分、飼い主が禄に躾けられてない獰猛な犬だったんでしょうね。生物委員の本能がそれを許せなかったんでしょう」
 「そんで、お前の担当は誰だったんだ?」
 「運が良いことに、中在家先輩でしたよ。あの人は他人に流されるのが上手いので簡単でした。自己中心的なのに、不思議と調和を乱さない所が凄いと思いますね」
 「ほお。後で伝えといてやるよ。天才からのありがたいお言葉だってな」
 「やだなぁ、お礼を言われたらどう返せばいいか分からないじゃないですか」
 くっくっと喉を震わせて笑う鉢屋を呆れた顔で見やり、文次郎はへいへい、と肩を竦めた。この後輩の憎まれ口は今に始まったことではない。
 「もしかして、潮江先輩も私に褒めて貰いたいんですか?」
 「誰がいつんなこと言ったよ」
 「別に言ってないですよね?数秒前の記憶もあやふやですか?先輩」
 あからさまに顔を顰めて見せれば、鉢屋は声を上げて笑った。裸足になって小川に入り、手ぬぐいで丹念に体を拭っている。どう見ても鬘のせいで暑がっているようにしかみえない。岩場に腰を下ろしてそれを見る文次郎をふっと鼻で笑って、鉢屋は言った。
 「先輩は自尊心が強いのが良いと思います。向上心がおありになる。立花先輩や食満先輩と張り合うことによってめきめきと上達するのが、凄く好きですよ」
 「てめぇはどこぞの占い師か?ええ?」
 「そこいらのインチキよか的確なことが言えますよ。人の特徴や癖を見抜くのは得意中の得意です」
 ああ言えばこう言う!文次郎は頭を掻き毟りたくなった。禅問答は苦手だ。しかも、仙蔵が得意とするような、相手の粗を探して掬い上げ、足を取り手を取り、舌先三寸で相手を落としめいれるようなものは!
 「そういう考えの、実直な所も嫌いでは有りません」
 鉢屋はそう言って、帯を締めなおした。撥ねた水滴が鉢屋の細い足首をしとどに濡らしているのを見やりながら、文次郎は自分の苛々したような声を抑えることができない。
 「俺、何も言ってねぇぞ」
 「先輩、顔に出やすいんですよ」
 先輩はまったく可愛いですねぇ、とかなんとか心にも無いようなことを飄々と言う鉢屋を睨みつけながら、文次郎はその細い足首からしばらく目が離せなかった。
 「なら、俺が苛ついてるのぐれぇわかんだろ?」
 「分かりますが、それ以上に先輩が私のことが気になって気になって仕方がないってことも分かってますので」
 鉢屋はそう言って、長い舌をべろりと見せた。蛇のようだと思う。ぱんっと音を立てて張られた手ぬぐいから飛び散った水滴が微かに飛んできて、文次郎の額についた。それを拭おうとして、ようやく文次郎は、自分の眉間に思い切り皺が寄っていることに気がついたのだった。ほうら、すぐ顔に出る。鉢屋はそう言って、またかんらと笑って見せるのだ。
2009/7・7


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