■幾千の日々を超えて
 
 記憶の中で特に鮮明なのは兄の左手だった。兄は敵の多い男であったから、何をするにも利き腕が自由な状態でいさせることに気を配っていた。幼い頃から同じように己も教えられた。体のどこに拳銃を下げているのか、反射的にそれを手に取る動き。一日中その練習をしたことだってあった。
 兄は戦争に対して絶対的な『意思』を持っていた。それは戦争をするために生まれた国としてのプライドのようなものがあったせいかもしれないし、無論、それはプロ根性のようなものだったのかもしれない。敗戦国となった国にどのような結末が待っているのか、兄は熟知していた。
 それ故に、彼は負けることを一切許さなかったし、それは自分にもよく教え込まれた。兄という存在であったが、自分の印象では『父親』や『教官』のような存在であった気さえしていた。事実、己が部下に教育をする時は自然と兄のような仕草をしてしまうことさえあった。
 しかし、彼は確実に自分の兄だった。それだけは揺ぎ無かった。彼は幼い自分の手をいつでも握ってくれていて、いつだって自分を気にかけた。自分に何かが起こったときには烈火のように怒り、自らその鉄槌を食らわせた。自分の安否を慮り、しかし時には子供のように自分に張り合った。そうと思えば己の頭を撫で心から喜び、また、己と共に泣くことさえあった。
 「兄さん」
 兄はよく自分を抱きしめた。首に腕を回し頭を抱きかかえるようにして眠りに付くこともあった。自分の武勇伝を誇示して話してくるのも嫌いではなかった。兄の楽しそうな顔を見るのが好きだった。




 「兄さん、何てことしてくれるんだ」
 兄の楽しそうな顔を見るのは好きだが、悲しそうな顔や苦しそうな顔を見るのはあまり好きではない。しかし、自分には今その切なそうな顔を見ても兄を叱咤しなければならない状況にあった。何がなんでも、だ。
 「だってよ、別に名前も書いてねぇし、それに一切れだけだぜ?俺の分かなぁーとか思うだろ?」
 「この歳にもなって、冷蔵庫の中に毎日おやつが用意しているなんて考えないと思うんだがな・・・」
 テーブルの上に置かれた真っ白い皿を見下ろしながら、俺は溜息を吐いた。朝見たときはこの上にはチーズケーキが乗っていたはずなんだが。テーブルを挟んで向かい側に座る兄はフォークを口に銜えながら俺を見上げる。上目遣いがしたいんだろうが、アンタがすると睨みつけてるようにしか見えない。
 「フェリシアーノの奴が初めて作ったからといって、感想を教えてくれと頼まれてたんだが・・・参ったな」
 「フェリシアーノの!?食って良かったー!・・・わるい、冗談」
 一度睨みつけると両手を上に上げて降参のポーズを取る。かつての戦争国とは思えない潔さだった。腹のうちで何を考えているか分からない姑息な手を使うのだけれども。
 皿の上にはケーキの底についていたはずの白い紙だけが残っている。それを一応摘み上げてみるが、まったく綺麗に食べきられている。欠片すら無かった。
 「それにしても綺麗に食ったな」
 「めっちゃくちゃ美味かったぜー」
 にこにこと笑いながら兄が言う。幸せそうな顔を見ているとついつい許してしまいそうになるが、フェリシアーノの「感想を教えてね」という言葉に了解の意を示した己としては、どうしようもない。もう少し考えて行動することを覚えて欲しいものだ。腕を組んで唸っていると、兄がけろっとした顔で言ってくる。
 「いいじゃねぇか。美味かったって言えば。美味かったし」
 「それはお前の感想だろうが・・・」
 「フェリシアーノだって『お前の』感想とは言ってねぇだろ?」
 相変わらず捻くれた物言いだ。どっちにしろ兄が食べてしまったものには仕方が無いのだから、そう言うしかないか。騙しているような気がして気分が悪いが。
 兄はフォークを皿の上に放ると、いやぁ、それにしても相変わらずフェリシアーノは料理美味いな!とかなんとか絶賛していた。俺はとりあえずそれに適当に相槌をうっていたが、段々さっきのチーズケーキが気になってきた。何度も何度も「滅茶苦茶美味い」と言われればどんなものだったのだろうと気になるのが普通だろう。
 俺がじとりと兄を見ながら、「そんなに美味かったのか?」と聞くと、まるでその言葉を待ち受けていたかのように兄がにんまりと笑った。
 何か罠があったのだ。
 俺はその見慣れた嫌な笑みを見て、反射的に身を引く。しかしそれを防ぐ、兄の左手が俺の胸倉を掴んだ。
 「待ってくれ、兄さん、何をす」
 言葉を言い終えるよりも先に兄の口が俺の口を塞いだ。爽やかな檸檬の香りと、甘いチーズケーキの匂いが鼻に抜けた。同時にあっという間に兄の舌が自分の舌に絡まってきた。追い返すために噛み付いてやろうかと思った瞬間、するりと兄が離れた。
 「美味かっただろ?」
 「味なんか分かるか!」
 かっと熱の灯る頬を意識しながら俺が叫ぶと、兄は独特の笑い声を上げた。「また貰ってこいよ」と優しく吐かれる。かつて己の手を握っていた兄の左手が自分の頬をそっと撫でた。
 「今度こそ一緒に食おうぜ」
 「・・・兄さんが我慢すればいいだけなんだけどな」
 「そういう嫌味はやめろよ、ヴェスト」
 再び降参のポーズを取る兄を睨みつければ、まったく懲りていないように兄が笑った。戦いが終わった後でさえ俺はまだこの人に勝てない。
2009/4・20


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