■今夜で終わりです、どうぞ手を
 

 酒が抜け切ってないんだ。二つの瞼はどろりと濁った泥のように重いし、脳味噌の奥がみしみしと軋む音を立てている。テーブルに置かれた水に手を伸ばしたくても体全体がだるくて動きたくないし、ヴェストは黙ってソファの隣に立って俺を見下ろしてるだけだし。
 「ヴェストぉ」
 「どうした」
 水ならテーブルの上だぞ、と一言呟いて、ヴェストは俺が寝転がるソファのすぐ隣にある椅子に歩いて行ってしまった。何をするのかと思えばどうでも良さそうな細かい文字が連なっている本を眉間に皺を寄せて読んでいた。そんな苦しそうに本読むぐらいなら、弱ってる兄に甲斐甲斐しく尽くそうとか思わないのか!
 軍人ってのは気の利かない奴らばっかりだからな、という言葉がふっと思い浮かんだ。長椅子の上にふんぞり返ってる、よくわかんねぇ偉い奴ら。ヴェストの背中を押す俺の背中をびしばし叩いてきた顔も覚えてねぇ奴らの台詞だ。その軍人が居なければ俺達の国は発展しなかったってのに!気を利かせなければいけないのは軍人じゃなくってそういう偉い、何もしない奴らの仕事なんだ。宮殿を出て、俺はヴェストに言ってやった。幼いヴェストは青い大きい目玉を俺に向けて、無表情で突っ立ってた。だからヴェストは何も悪くないんだぜ、と俺は言った。そう、あの時だって、ヴェストは何も言わなかった。何か喋るってことでも忘れちまったのかもしんねぇ、って思っちまうぐらい、じっとしていた。ただ、青い目だけが俺の中で印象に残ってる。
 ヴェスト、俺の誇りに思う大事な弟!無口でぶっきらぼうで何考えてんのか、どうせくだらねぇことばっかり考えてるお利巧さんなその脳味噌。俺のことばっかり考えてる、無防備で可愛らしいこども!それが今や可愛げの欠片もねぇ筋肉むきむきの強い野郎に育っちまって・・・!
 「ヴェスト・・・ヴェストー」
 「兄さん・・・寝言なら目を瞑って言ってくれ。起きてるならはっきり用件を言ってくれないか」
 ぐずぐずとソファの上で愛しい弟の名を呼べば、帰ってくるのは低い、困ったような男の声だ。俺様のお陰で一人前になったっていうのに!はぁぁ、と重く苦しい溜息ばっかり出てくる。
 もう一度小さいころのヴェストを思い出すと、やっぱり強く印象に残っているのは今と変わらないあの目。まっすぐと物を見据えることに長けた、軍人のような一直線の目。そう、そういえば、あのときヴェストは、何も言わなかった。必要なことしか口に出さずに、俺をじっと見て、黙って小さな手を俺に向かって差し出してきた。
 幼く柔らかい、まだ銃を持って間もない、あの守られるべき手。あいつはそれを俺に差し出して、無言のまま手を握るように催促する。俺はそれを笑って掴む。小さな手。子供の手を。
 俺はがばりと体を起き上がらせた。痛む頭に突然血の気が引いたせいか、きぃん、と金属が脳味噌の中で鳴ったような感覚がして、ぎゃぁ!と悲鳴を上げてしまった。滅茶苦茶に痛い。ヴェストも驚いたのか、手にした文庫本をテーブルに置いて、ようやく俺の元に少し慌てて寄ってきた。何してるんだあんたは、と呆れた声が振ってくる。
 俺は痛む頭を無理やり反転させて、俺を心配そうに見てくるヴェストと至近距離で向き合った。驚いたような顔で、それでも俺のことを心配してくる弟をそっちのけにして、俺はヴェストの手を掴む。
 当たり前だが、体に比例してでかくなった手にはあちこち擦り傷が走っている。ごつごつとした男の手をしていた。拳銃の扱いに手馴れたせいか、人差し指にタコができている。幼い頃の手と見比べて、同一人物の手だと誰が分かるだろうか。戦いに生きた俺達の辿ってきた日々を差すような、そんな手だった。
 「兄さん?」
 不思議そうな声を上げるヴェストを無視して、俺はその手を握った。両手で包み込む。傷だらけというならば負けず劣らずの俺の手で、ヴェストの右手は完璧に隠れた。
 幼い頃は片手ですっぽりと包めたヴェストの片手は、俺の両手でぎりぎり包み込めるほどの大きさだった。がさがさとした肌を掌で触れれば、ヴェストは少し眉間に皺を寄せた。
 ヴェスト、お前は俺が戦争しか能の無い奴だってことを百も承知なんだろうけれど、別にあの日々に戻りたいわけじゃないんだ。だからそんな心配そうな顔をするな。
 俺はヴェストの手から両手を離して、テーブルに置いてあった水の入ったコップを掴んで、中身を喉奥に突っ込んだ。冷たかった水はもうぬるくなっている。兄さん、と困惑した声が俺の耳に届いたが、俺はそれを無視した。いつまでも俺とお前が昔のままでいないことぐらい、いくらなんでも俺だって分かってるんだ。もう少しぐらい、酔っ払ってる振りをしていたかったけれど、俺の両手はもう一人立ちした男の手の感触を覚えてしまっていた。優しく不器用な弟の手に甘えているままなんて、世界が許したってこの俺様が許せねぇんだ。
 「ヴェスト!今日は俺様が昔みたいに添い寝してやるぜ!ありがたく思え!」
 「え、ええ?いや、流石に狭いだろ」
 「お前が寝相よく寝れば大丈夫だ!」
 今夜で最後だ。お前の幼い手を思い出して眠りに付くのも、あの日、青い目の見上げてくる中に、永遠のように思えた自分自身の姿をみることさえも。
2009/4・5


TOP