■貸し借りの道徳

 富松作兵衛は思い込みの激しい性質であり、それに加えて極度の怖がりであった。幽霊や妖怪という類に対しては、彼の友人である次屋三之助や神崎左門に習って存在しない、と割り切ることができる反面、彼らの先輩である5年生や6年生に対しての恐怖の刷り込み、というのは、他の3年生の面々の目から見ても、かなり、酷いものであった。
 なので、6年い組所属の作法委員会委員長である立花仙蔵が、両腕に次屋三之助と神崎左門を引きずってやってくる所なんてのを見た瞬間、彼は事実、飛び上がるほど驚いたのだった。
 「富松作兵衛」
 夏の暑い日だというのに、立花仙蔵の声はぴんとしていて、富松から思わず体温を奪った程である。両手に引き摺られていた彼の同胞は、仙蔵の細長い指から首根っこを離されて、どさっ、と重い音を立てて地面に落ちた。
 富松は、声を出すことを忘れて仙蔵の顔をじっと凝視した。喉がからからに乾いていて、声など出る状態ではないのだ。なぜこの先輩が己の友人達を引き摺って歩いて、いや、彼らが気絶しているのは、何故なのだろう、もしかして先輩が、などと、富松の想像力で一瞬で複数の物語が作られる。顔を真っ青にして固まる後輩を見下ろし、仙蔵はぐいっと手の甲で自分の額を拭った。富松からは想像できなかったが、仙蔵は汗だくで、重い二人の少年を引き摺ってやってきたことで、両腕はちぎれるかと思うほど痛んでいた。
 「富松、聞いているか。すまないが、井戸に行って水を汲んできてくれないか。それと、手ぬぐいを3枚」
 未だ、ぽかん、とした面で縁側に座る富松に、仙蔵は厳しい声で彼の名を呼んだ。富松。脳の中身だけどこかに吹っ飛ばしていた少年は、次の瞬間、びくり、と仙蔵がたじろぐほど震えると、はいっ、はいっ、と返事のような悲鳴のような、なんともつかない声を上げて、一目散に走り出して行ってしまった。
 仙蔵は、ぼんやりとその背を見ていたが、地面に直接倒れたままの二人を見下ろし、溜息をつきながら、今度は丁寧に、一人づつ縁側へと移動させた。じっとりと汗ばんだ背中に、着物が張り付いて不快だった。




 富松は、今まで人生の中でこれほど急いだであろうか、と自分に問いたくなるほどのスピードで、水桶に一杯水を汲み、自分の持っている手ぬぐいの中で新品を選び、3枚、言われた通りに持って行った。日陰になっている3年長屋の廊下で、仙蔵は深緑の上着を脱ぎ捨て、黒い一枚の下着姿になっていた。長く黒い髪を更に上で纏め上げ、日に当たったことがないのではないか、とさえ思える白い肌がむき出しになっている。前屈みで縁側に座り、じっと目を瞑っていたようだが、富松が戻ってきた足音を察知して、静かに瞼を開けた。次屋と神崎はその隣に横になって寝かされている。
 「たっ、立花先輩っ、お持ちしました!」
 仙蔵はありがとう、と一言返答し、さっさと手ぬぐいを水で浸すと、次屋と神崎の額にそれらを乗せた。次屋と神崎も薄緑色の忍び装束を脱がされていて、仙蔵と同じような格好になっている。仙蔵はもう一枚の手ぬぐいを水で濡らし、自分の頭に一度押し当ててから、汗で濡れる自分の体を拭った。仙蔵の両腕というのはもっと細い、女のような腕をしているものと思えば、そういうわけでもなく、しっかりと筋肉の付いた男の腕である、とそれをぼんやり見ていた富松は思った。先日見た、この男の女装というものが酷く艶かしいものであったから、勝手にそう思い込んでいたのだ。
 富松の部活の先輩である食満や、その好敵手と名高い潮江と比べればそれは細いかもしれないが、富松とそう変わらない、そんな腕だった。
 「すまないな、富松。あとで手ぬぐいは綺麗なものを返そう」
 ぼんやりと物思いに耽っていた富松を、あっさりと現実に引き戻しながら仙蔵は言った。
 「ええっ、いえ、良いですよ別に。俺、手ぬぐいあんま使いませんし、あ、いや別に不潔って訳じゃないですよ。ただあまり新品って自分で使う気にならないんで、滅茶苦茶残ってるっていうか、とにかく、気にしないで下さい。それは差し上げます」
 富松は、ただひたすらに恐怖故にそれを断った。言ったことは事実だ。富松は貧乏性で、しかも物を丁寧に使う性質なので、そうそう新品に手を出すことがない。実家からの仕送りに入っている真新しい手ぬぐいなどは、すぐに手ぬぐいを汚して駄目にしてしまう次屋や神崎に渡しているのだ。だから、今更一枚や二枚、どうってことはない。それも立花仙蔵から手ぬぐいを貰っても、それこそ自分に使えるとは思えない。
 しかし、仙蔵はそんな富松の言葉を一笑し、だが、それは断る。と笑った。
 「私は誰が相手だろうが借りを作るのは御免だ。いつどんな方法でそれを返せと言われるか予想がつかないからな。そういう、自分で自分の首を絞めることなど、私は私を許しはしない」
 「いえ、だから、そんなことは」
 「富松、私の命令が聞けないとでもいうのか」
 そんな台詞を吐かれたら、富松は言葉を無くすしかない。怜悧な顔立ちをした男は、ずいっ、と富松に顔を寄せた。つり上がった切れ長の目の中で、小さな眼球が蛇のように富松をじろりと捕らえた。富松はそのとき、悲鳴が出なかった自分を褒め称えた。
 「私の命令が聞けないのか、富松作兵衛」
 「いえっ、いいえっ、決してそんなことはぁっ!」
 仙蔵はその言葉を聞くと、にっこりと意地悪く笑い、それならば良い、と呟きながら体を退かせた。
 「おお、そうだった。次屋と神崎は裏山で何かにぶつかったのか気絶して倒れていたのだ。私が走っていたら見つけた。打ち所が悪いかもしれんから、後で保健室にでも連れて行った方がいい」
 「あっ、ありがとうございます」
 仙蔵はそう言うと、己の上着を掴み、さっさと行ってしまった。いつの間にかぐうぐう寝こけている二人の友人の声で正気に戻り、富松は咄嗟に、起きろこの馬鹿野郎っ!と怒声を上げた。





 それで、それがなの。正面に座って話を聞いていた伊賀崎はそう言った。富松が次屋と神崎に最初に話していたその仙蔵との会話は、いつの間にかその場に夕食を取りに来ていた3年生達の耳に入ったらしい。このまま夕食の後はすぐに風呂に入りに行く3年ろ組の隣には、木桶と着替え、手ぬぐいがある。富松の桶にひっかかっている新品の手ぬぐいは、先刻部屋まで手ぬぐいを届けに来た仙蔵から渡されたものだった。それはお前が使え。すぐ使え、と脅迫まがいに言われ、戦々恐々としながらそれを桶に入れてきた。
 「っていうか、そもそも次屋と神崎はどうして裏山で倒れてたの」
 保険委員である三反田が、心配そうな声で聞いた。次屋の頭には包帯が巻いてあり、大きなたんこぶができている。神崎の方は体のあちこちに擦り傷ができているらしく、頬や首や手の甲などに軟膏が塗られ、それを白いテープで貼り付けられている。
 「それが猪に会ってな、闇雲に逃げ回っていたらすっ転んでしまった」
 「俺は崖から落ちて木に頭ぶつけた」
 崖といっても2,3m程度だと次屋は言うが、それを聞いた三反田と浦風は揃って顔を顰める。一人喃々と首に巻いている蛇に餌を与える伊賀崎だけが顔色を変えない。
 「でも、それを拾ってきてもらったのなら、次屋と神崎は立花先輩に借りができてしまったんじゃないか?」
 「そうなのか」
 人事のように神崎は言う。だからといって仙蔵に何か言われた覚えはない。人のことを物の様な言い草で表す三反田に悪気は無いだろうが、富松は思わず苦笑して、味噌汁を啜った。柔らかい茄子を咀嚼しているときに、ふと、己の頭の上に影がかかった。
 「よお」
 ふと頭上からかかった声に6人が顔を上げれば、丁度浦風の背後に立花仙蔵が立っている。既に食事を終わらせたのか、空の盆を持って、ニヒルな笑みを浮かべている。立花先輩!と5人の声が同じ調子で重なった。伊賀崎だけが、こんばんは、立花先輩、と挨拶する。
 「藤内、風呂から上がったら作法室に来い。委員会の仕事がある」
 「あ、はい」
 仙蔵はそう言うと、長い黒髪を翻して行ってしまった。その背をぽかんを見ていた富松は、はっと気がつくと、盆の中に少しだけ残っていた山菜を口の中に押し込み、それを前の棚へと持って行き、一目散に立花仙蔵の背を追った。先輩、と富松の声が廊下で響いたのが聞こえて、残された面々は顔を見合わせた。





 先輩、やっぱり、手ぬぐいお返しします、と富松は言った。呼び止めた立花仙蔵は、ぴたりと足を止めると、堂々と身を翻し、廊下の中央で仁王立ちをした。腕組みを見下ろされれば、富松は自分の喉から声にならない悲鳴が上がったことを自覚した。怖い、恐ろしい、という恐怖がぞわぞわと背筋を這い上がり、「いえ、やっぱりなんでもありません」と言って、今からでも遅くない、食堂に戻ろうかと思った。
 「何故?」
 立花仙蔵は淡々と聞いた。声音は恐ろしく冷たい。ひぃい、と富松は声を上げそうになるのを必死に留め、俺は、俺は、とどもりながら答える。
 「俺は、先輩に貸しなんて作ってません。むしろ、先輩が俺に貸しを作りました。あいつらを助けて貰った、借りが、あります」
 「それは奴らのものであって、お前のものではない」
 「あいつらを探して捕まえるのは俺の役目です」
 「お前がやりたくてやっているものではないだろう。それはただの役目であり、お前の義務ではない」
 仙蔵はそう言って静かに笑った。富松は声を無くして、ぽかんと己の先輩を見上げた。夜の中、夕暗がりの中に見える男の顔は、富松を嘲笑っている。
 「私は自分の責任でもないものをお前に取らせようなどと思わない。そもそも私はそんなものに貸し借りなど感じない」
 「俺だって、手ぬぐいぐらい」
 「お前が許しても私が許さない」
 「それを言うなら、俺だって、」
 「ずいぶん噛み付くじゃないか富松作兵衛。誰に向かって口をきいている」
 途端、富松は顔を蒼くして、あっ、と引き攣った声を上げた。親しくしている食満留三郎にだってここまで言ったことはなかった。仙蔵の顔は、のっぺりとしていて、悪く言うつもりはないが、そう、妖怪の類に似ている。
 「あっ、あっ、すみません!」
 さっと頭を下げると、ふはは、と気の抜けたような声が廊下に響いた。それが一瞬誰のものか分からなかったぐらいだ。立花仙蔵のものだ、と気づくのに数秒掛かった。
 富松が頭を上げれば、立花仙蔵は呵呵大笑していた。あっはっはっは、と底抜けに明るい笑い声がして、声を聞きつけた潮江文次郎がやってきた。大笑いする同輩を見て、何をしたんだ、と富松へ視線を向ける。富松も理解ができず、間抜け面でそれをみた。
 「いや、結構!あの阿呆に似て大した男前だ!」
 「えっ?」
 仙蔵はそう言うと、「だが、しつこい男は嫌われるぞ」と富松の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫ぜた。呆けた顔の潮江の肩に手を掛けて、お前、今日の課題終わったか、と既に違う話題を展開している。廊下の中央にぽつねんと取り残されて、富松は言葉を無くしてその背を見た。おい、富松、風呂行こうぜ、といつの間にかやってきた次屋と神崎に呼びかけられて、ようやく、のろのろと、応、と返事をした。
2009/8・23


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