■竜は宇宙から降ってきた星を見てしまった



 しばらくしとしとと降り続いていた雨が、戦が終わったと同時に土砂降りになってきたので、家康は先ほど戦で落とした城の門の軒下でじっと立っていた。火薬を片付け、同時に近隣の村で雨による被害が出ないか否かの確認と、死者の確認が行なわれている。血に濡れた城の中で、生き残りがいるかどうかを部下が探し回っていた。政宗は腕を組んで強い顔をしたまま立つ家康を見つけ、雨から逃げるように隣に入った。
「ひでぇなこりゃ」
「ああ。堤防が決壊するなどということが無ければいいが。しかし火事の心配は無くなった」
「降りすぎて流されりゃ、畑も焼けた方がまだマシだと思うがな」
 手甲を外し随分楽になった格好で、そろそろ城も粗方片付けが終わった頃だというのに、家康は中に入る気配は無い。家臣も雨の中走り回りながら数度伺うように家康を見たが、その梃子でも動きそうにない顔で仁王立ちされていると、掛ける言葉も思いつかぬようで、まるで見て見ぬフリをするかのように、己の仕事を忠実に片付けて行く。政宗の部下も徳川軍と組んで方々で走り回っていた。小十郎が濡れ鼠のようで、後ろに撫で付けた髪がだらだらと零れるようで、眉間に寄せられた皺もいつもの数倍酷い。
 陣羽織を脱ぎ、部下に鎧を預けて軽装になりながら、政宗はじっと立つ家康をちらと見て、ha、と小さく溜息のような呆れた声のような音を口から洩らした。
「何を心配してるのやら」
「本多忠勝殿、ご帰還ー!」
 ぼっ、と豪雨の中を弾けるような爆音が、遠くで鳴り、雷のように門前へ飛んできた巨体があった。両腕や背中には数人の男がぶら下がっており、満身創痍のようだった。家康はぱっと雨の中に飛び出して、忠勝から降ろされた兵に縋りついた。地面に落ちた男達の血が、雨と絡んで大地に染みる。
「もう大丈夫だ、傷から手を離すな。もう大丈夫だからな」
「ああ、殿、殿・・・敵将、討ち取ってみせました・・・」
「ああ、見事だ。お前はワシの誇りだ。さぁ・・・」
 家康が城から運び出された布を兵士に掛け、すぐに城に運び込むよう指示を送る。騒然となった門前は、あっという間に人気が失せる。政宗も部下に指示を飛ばし、救護に回らせた。
「ありがとう忠勝。皆を拾って来てくれたんだな。ありがとう・・・怪我はないか。ああ、そうか、よかった・・・」
 冷たい巨体に寄りかかるように、抱きしめるように気遣い、家康は忠勝を城の中に入れるよう促す。ぱっと遠くで雷が落ちて、ごろごろと腹に響く音がした。火薬や雨に弱いものを素早く撤収させ、一先ず全員雨凌ぎに中へ駆け込む。鎧が錆びないように部下がこぞって忠勝の巨体を拭くのに回るのをぼんやりと見る家康の肩を掴み、政宗は上階へ昇るよう促した。



「あ」
 上階は閑散としており、数人が未だ潜伏している人間が居ないか確認を続けているだけだった。屋根裏では忍者達がうろついているのだろうが、音がしない。殆ど雨の音で掻き消されていた。政宗は落ち着かない様子でのろのろと歩く家康を先導し、これから進むことを話し合うため、軍議に使えそうなそれなりの広さの部屋を探していたのだが、ふと、零れた家康の小さな声に踵を返した。既に手は離していたが、家康は政宗の数歩後ろを歩いていて、濡れて冷えた足がぺたぺたと床を引き摺っていたのだが、その足もぴたりと止まっている。政宗はなんだと声を掛けようと思ったが、ぎょっとして言葉を無くしてしまった。家康の目からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていた。
「あっ?」
 涙のようには思えなかった。ただの水だと思った。不思議なことに何故か家康の目から零れる透明な液体を、政宗は「涙――」だとは思わなかった。が、目から出ている液体が、涙以外ではなくてなんだというのか。家康本人もぎょっとしているようで、何故涙が出ているのか分からないようにぽかんとした顔で、な、なんだ!? と目から溢れる水を両手で拭った。
「な、なんで涙が」
 それは涙なのか。
 政宗もぽかんと間抜け面で家康をじっと観察してしまう。家康もぽたぽたと落ちる水を不思議そうに見やっていたが、突然、上からばさりと着物が落ちてきて、ふっと政宗の視界から家康が消えた。
 女物の上等な着物で、政宗が驚いて上下左右を確認すると、開け放たれた右の部屋に、着物をかける柱が寂しそうに立っていた。
「半蔵か」
 返事は無かったが、家康は着物を取ろうとしたようだった。しかしそれを取って現れた顔も、未だぼろぼろと涙が零れていたので、政宗は落ちかけた着物を家康の頭にかけて、ぐるぐるに巻いて首に腕を回して拘束した。うぶっ、とくぐもった悲鳴が零れるのも知らぬフリをして、政宗はぐいぐいと着物につつまれた家康を引き摺り、適当な部屋に入り、戸を閉めた。
「お、い、独眼竜、手を、離せ、駄目だろう、が」
「何がだ」
「こんな上等な着物、汚したら」
「はぁん? てめぇは本当に馬鹿か」
 ぺっ、と唾でも吐き捨てるように政宗は毒づいて、「泣き止んだら取ってもいいぜ」と言う。家康は少しだけ躊躇い、分かった、と着物の中で頷いた。
 部屋は倉のようで、それなりに書物が揃っていた。手入れが行き届いていないらしく、長年触れられていないらしい場所には酷く埃が積もっていて、政宗は部屋に唯一付けられていた小さな窓を忌々しく思ったが、無理やり穴を大きくしようとは思わなかった。
 家康のすすり泣く声はせず、ただ生理現象で息が詰まるのか、普段より微かに引き攣った呼吸音が、小さく数度政宗の耳に触れた。
 がらがら、と遠雷の叫ぶ音がする。
「お前の方が泣いているような空模様なのになぁ」
「ha! 馬鹿言うんじゃねぇよ。お天道さまが泣いてるって言うんだろ」
「そりゃそうか」
 よし、と家康は着物を取った。目は少し腫れぼったかったが、涙は確かに止まっている。いつもどおりのすまし顔で、いや、すまなかったな、と政宗に謝った。不器用な手つきで政宗がぐしゃぐしゃにした着物を適当にたたみ、家康は肩を竦める。どうしたんだろうなぁ、と頬をぽりぽり掻く姿はまるで叱られた子供のようで、俺が知るか、と政宗はそっぽを向いた。己が小十郎に小言を言われた時にやる仕草と被って見えた気がしたからだった。



 家康の腹心が着物を投げて寄越したのは家康の情けない様子を多くの人に見られると困るからだろうし、もしかしたら政宗にも見せないという意味合いがあったのかもしれなかったが、政宗はもう家康の泣きっ面を見てしまった。泣きっ面というにはあまりにも情けなさとは無縁の、むしろそれが「悲しんでいる顔」と言うには語弊があるほど、感情の見られない涙を流す顔であったから、政宗はそれが泣き顔だとは思わなかった。家康の肉体が人間として正しい行為――例えば欠伸をして涙を流すようなそんな様子にしか感じられなかったから、同情も何も感じなかったのだ。
 しかしあれは悲しみ故に流したというよりは、部下が一命を取り留めて帰ってきてくれたという安堵から流れた涙なのだろうから、家康のその秘密の――泣き顔というものは、政宗にとっては何でもない、家康の例えば笑顔の程度のものでしかなかった。
「権現は本物だよ」
 暗の官兵衛と呼ばれた男はそう家康を皮肉った。
「お前さんのような半人前の神話とは違うのさ」
「空も拝めねぇ癖に太陽が本物かどうかなんて分かるのかよ黒田官兵衛」
 多くの人間が家康を神聖視するのが、政宗は嫌だった。家康を己よりも上だと認める気持ちはあったが、それはあくまで器の差――神がどうしたとかそんな馬鹿げた話を含む気は無かった。自分自身を竜だと称するが、政宗は自分自身がそれでもなお人であることをよく理解していた。神や仏などは信じはしない。上杉謙信だってただの人だ。生き仏など認めはしない。だから家康だってただの人で、苦しむ時には苦しむし、悲しむ時には悲しむだけの、ただの人でしかない。誰も見ていないからあいつは泣かないものだと、怒ったところを見たことがないからあいつは怒らないのだと、聖人君子だと馬鹿げている話だと思う。
「我慢してぇなら勝手に我慢してろ」
「・・・突然どうした」
「お前を我慢させてるのは周りじゃなくてお前自身の勝手なんだぜ」
 家康はぱちぱちと瞬いて、ああ、そうか、そうかもな、と笑っただけだった。月を殺しに行く前の日に、太陽はいつも通りに遠いお空の上から燦々と光を注いでいたし、雨が降る気配もまったく無かった。それでも政宗は心臓の深い所で雷が鳴っているのを聞いていた。
  2010/12・2


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