■可哀相な陽



 別に知らなくてもいいじゃないか? と家康はそう言って不思議そうに首を傾げた。半兵衛は微笑みを絶やさぬまま、そう、と頷いた。それを肯定した訳ではなく、ただ家康の言葉を「そう思うんだね」と確認するように、家康の太陽の咲くような両目をまっすぐ見詰め、そういう子だね、君は、とそう言う。
「君は、昔からそうだけれど、物事の本質を見極めたがる癖に、人の心に深入りをしないよね」
「そうか?」
「君のそういうものを、僕は長い間優しさや、受け止める強さだと思っていたけれど、もしかしてそれは諦観なのかな? そうだとしたら、君の我慢強さも、一種の諦観が入るせいとも思えるよね――。うん、あの時代だと幸村君辺りがそういうものが、無かったよね。死ぬことさえ美徳だったっていうのに、君はちょっと違う。そう言うところは、君は慶次君に似ていると思うよ。でもまぁ、僕は彼のこと嫌いだけど、君のことは嫌いじゃない」
「好きでもないんだろう」
 あっはっは、と家康は快活に笑い飛ばした。半兵衛は己からそう言ってのける家康を眩しそうに見つめ、うん、と頷いてコーヒーを口に含んだ。
 死んで生まれ変わってから知ったことで、ああ、秀吉はそうなってしまったのか、と歴史の教科書を読んでから哀しく思ったが、しかしいつまでも昔を引き摺るわけにはいかない。秀吉はそうやって過去の悲しみを、彼の愛しい女を殺すことも乗り越えたのだ。己がそうやって弱いままでは、今世でもしも秀吉に会ったとき、怒られてしまう、と半兵衛は過去の憎しみは全て切り落とした。目の前の少年はただ夢をかなえるために邁進しただけだ。昔の僕もそうだったはずだ。そのような己が他人を責めることなどできない。それが正しいことだと半兵衛はそう、思うことにした。
 だからといって憎しみがまったく無いわけでもないのだが。
「だから君のことが心配なんだよ」
「心配される謂われはないと思うが」
「あるよ。君は昔から・・・・・・可哀相な子だったから」
 またそれか! 家康はふっと笑っただけだった。家康もその頃のことは覚えているらしい。昔半兵衛と交わしたその応酬は、家康の中でも半兵衛の中でも大分印象の強い出来事だった。いや、むしろ二人同士の記憶がこれぐらいしか無いというべきかもしれない。
「三成君や吉継君から聞いたよ。まったく変わらないってね」
「いや、変わったぞ? もう見栄を張る必要が無くなったからな。泣くし愚痴るし喚くし、面倒なことこの上ない男になった」
「自分のことをそう評価する人も珍しいよね・・・・・・」
 しかし、昔から変わらないと評される癖にそうやって自分が感情を表に出すようになったと豪語するということは、彼にとって三成はどれ程面倒くさい男なのだろう。半兵衛は聞いてみたいとも思ったが、もしかしたら違う部屋で勉強をしている三成が何かを察知して駆けつけてくるかもしれないと思って口を閉ざす。口は災いの元、だ。せっかく二人きりにしてもらったというのに、横槍が入るのは好ましくない。
「君が愚痴るか。想像がつかないな・・・・・・。でも、全部教える気はないんだろう?」
「だから、知らなくてもいいだろう? そんなこと」
 そしてまた、この言葉だ。家康はほとほと困った、というように肩を竦めた。同じことを何度も繰り返す半兵衛の押しの強さを、どう受け流そうか悩んでいるようだ。よし、と太腿を一度強く叩いて、家康はどうやら本気で話し合う体勢を取った。前世から続く半兵衛の意固地な意見に対立するように、きりっと顔を引き締めるので、半兵衛は思わず噴出してしまう。
「半兵衛、ワシが言いたいのはな、無理に言ってそれでどうすればいいかという話だ。そりゃ勿論、ワシもあの頃は色々迷って惑って苦しんだ覚えがある。が、それを言ってどうする? ワシは心配されたい訳ではない。それに助けて欲しかったわけでもない。あれはワシの苦しみで、誰かに押し付けられるものでもない。人に言う意味がないのだ」
「君、それを本気で言ってるのかい?」
「本気だ。ワシは、いつでもな」
 半兵衛は呆れたように、いつになく真剣な家康を見下し、はあ――、と溜息を吐いた。今世では病も無く、ただインドア派というだけで体が弱そうに見る半兵衛なので、溜息は大変よく似合うのだが、体はしなやかに鍛えられているし、そこらの無芸な一般人ぐらいは片手で捻りあげられるぐらい強い。しかし病弱なほど白い手を頬に添えて、やれやれと溜息を吐く姿は病室で寝ていても不思議ではないほど儚く見える。そんな男に心配されるなんて不思議なものであったが、家康君――と半兵衛は首を振った。
「いや、君の言いたいことは分かる。だって君の苦しさは君にしか分からないことだからね・・・・・・知ったような振りをして『ああ、そうだね辛かったね苦しかったね』と言って君の肩を抱ける人間なんて、この世には一人も居ないんだろうから・・・。こうやって君を心配している僕だって、君の気持ちは分からない。僕は君じゃないんだから。どうせ君が君の心中を、何日かけて教え込んでも、その相手が君の苦しみを理解できるなんて、その何分かの一程度のものだ」
「いや、半兵衛、ワシが言いたいのはそういうことじゃなくて」
「いや、違うとは言わせないよ。君のその諦観――それは君の心を周りに発信させない防御壁みたいなものだろう? それは我慢でもあるのだけれど、君のその頑ななまでの他人を頼らない壁はね、君が誰も信用できないからあるんだろ? いや、それはきっと正しいことなんだと思うよ。実際、君が君の友人に苦しみを吐露しても、彼らは君のことを心配して優しく接することしかできないんだから――。君の苦しみを取り除くことなんて、誰にもできやしないんだから。・・・・・・こう考えると皮肉なものだよね・・・。戦国最強、本多忠勝も、一生のうちに怪我をしたことなんて無かったのに、君の命を最後まで守り通したのに、君の心は守れなかったんだから・・・・・・」
「忠勝のことをワシの前で侮辱するな、半兵衛」
「失礼。言葉が過ぎたようだ」
 言葉を濁すようにコーヒーを飲み、怒ったらしい家康をちらと見ると、家康は特に怒った様子も無くけろりと茶菓子を口に含んでいるようだった。どうやら先ほどの一瞬の怒りだけでストレスは発散できたようだ。
「・・・・・・まさかさっきのが『愚痴』・・・? まさかね」
 ん? 首を傾げる家康に、いやいや、と手を振って紛らわす。怒りの感情の代謝が良すぎるのか、と心の中だけで判断しながら、半兵衛は確かにこれじゃ、変わったとは言えないな、と口の中だけで愚痴を呟いた。
 自分のことは結局自分にしか救えないとはよく言ったものだと思って、半兵衛は目を細めた。結局彼は自分が何かを言って、周りに心配をかけるのを嫌がっている。ただ周りが心配なだけだ。もう、職業病なのかなぁ、と思う。
「家康君、君が何を言わなくても、僕はもう気にしないことにしたよ。君の言うことは最もだ。僕の考えが間違っていた。すまなかったね。何でもかんでも一方的に考えを押し付けて」
「え、いや、そんなことはないが」
「ただ、これだけは覚えていてくれないかい。君のことを嫌いになれない、君のことが心配な一人の男からの、たった一つのお願いだ」
 家康は一度頷いて、真っ直ぐ半兵衛の言葉に相対する。その真っ直ぐな眼が、秀吉に似ていると思いながら、半兵衛は口を開いた。
「君はね、自分が思っているよりずっと多くの人に幸せを望まれているんだよ。それだけを忘れないでいて欲しいんだ・・・」
 きょとんと眼を丸くする家康に、にこりと微笑んで、さぁもう遅いから帰るといい、と半兵衛は立ち上がった。見送りに三成をつけようかというと、家康はきっと半兵衛を独り占めしていたから帰り道ずっと怒鳴り散らされるから、いいよ、と首を振ってそれを断った。



 何も知らないくせに、といっそ詰ってくれればいいのに、とは家康相手には叶わない願いである。むしろ言って欲しいぐらいだ。「何も知らないくせに」と、そう言って敵視してくれれば、と思いながら元親はぶくぶくとコーラを泡立ててみる。汚いぞ、と三成が眉間に皺を寄せて、ばきっと容赦なく元親の頭を殴る。そんな痛みも大した罪滅ぼしにはならない。へぇへぇ、と元親は口を離して、ポテトをもりもりと食べた。すぐ隣でハンバーガーを食べる三成は食べ方がヘタクソで、齧り付けば下からぼろぼろと野菜や肉を零す。政宗はそんな様子すら眼中にないらしく、ジンジャエールをずるずると啜りながら音楽雑誌をぺらぺらと捲っていた。
「はーあ」
「うぜーな。言いてぇことがあんならさっさと言え」
「・・・・・・」
 政宗の言うことは最もだ。口の中でもごもごさせるだけで元親は何を言うべきか惑うようである。そういえば目の前の男は己よりも家康との交流は長かったと思えるが、どうなのだろう、彼は家康に関して何か思わないのだろうか。
 元親は、家康の力になりたいと思っている、と思う。頼られるぐらい強い人間になりたいとも思う。昔約束したように、家康の前に立ち、家康の隣に立ち、彼を支える人間になれればと思う。しかし、現状はこのザマだ。手落ちにも程がある。助けれていない、むしろ助けられている。救われているとさえ、思えるほどだ。
「・・・・・・あいつのために何かしてぇってのは、筋違いだと思うぜ。恩を返したいとかな」
「あ?」
「あいつが人を助けてぇだけなんだから助けられる側は黙って助けられて、ありがとう御座いますって感謝しとけばいいんだよ。あいつはそれで満足なんだからな。いらねぇ気ィ回してあいつを困らせるぐらいなら、何もしねぇ方がよっぽどあいつのためになるってもんだぜ」
 まぁ世の中にゃ感謝もしねぇやつもいるが、と後ろに小さく付け足す。三成は黙々とハンバーガーと格闘しているだけだ。そもそも三成は助けられていない。見捨てられた側だ。しかし政宗の言う感謝もしねぇ奴とは誰のことを言うのだろう、と不思議に思うと、政宗はふん、と鼻を鳴らしただけだ。
「どこに眼ぇつけてんだ」
「うん?」
「俺だよ」
 そう言って政宗は肩を竦めて「Ha!」と笑った。笑い事ではない気もするが、なるほど、傲岸不遜すぎて気付かなかった。
「生憎、俺は優しくはねぇんでな。それにあいつの喜ぶことばっかりしてやろうってほど良い子じゃねぇんだ。あいつに嫌がられてもあいつの世話焼いてやんよ」
「下種だな」
 三成はそう言ってサラダ用のフォークで皿に落ちた具材を拾って食べる。ハンバーガーの意味ねぇ、と元親は思うのだが、どうやらエネルギーが取れれば何でも良いという方針は変わりが無いらしい。政宗は三成をまるっきり無視をしているというか、その場にいないような扱いで、おめーはどうだよ、と元親に言った。
「あいつを困らせてもあいつの傍に居てやりてぇの?」
 変な言葉だと思う。傍に居る方が悪いようではないか。元親はどちらが正しいのか良く分からなかった。本当に彼を一人でいさせることが、良いわけがあるか、と思う。一人は寂しいものではないのかと、元親は思う。しかし、家康は、どうなのだろう。
「家康ってよ、もしも世界からすべての人間が居なくなったら、どうなると思う?」
「ああん?」
 助けるべき人がいなくなったら、人のために割く己がいらなくなったら、自分の好きなように生きれる人間なんだろうか? それとも人のためにしか生きれない男は、その場で死ぬか?
「くだらんな」
 三成は皿を綺麗に備え付けのナプキンでふき取って、水を一気に飲み干した。己の食事を終えると、ここにもはや意味は無いとでもいうように、財布から己の食った分の金をきっちりテーブルに置いて、さっと立ち上がり店から出て行った。元親はその背を見送ったが、政宗はただ雑誌を見るだけだ。
「くだらねぇって」
「結局人は自分のためにしか生きれねぇって思ってんじゃねぇの。結局あいつが家康を殺したがってたのは秀吉のためじゃなくて自分のためだったわけだし」
 政宗は適当にそう吐き捨てる。元親は三成がいた痕跡が残らない、食べかす一つ残っていない白い皿と、氷さえ無くなったグラスを見た。三成はこの世では家康と接触を避けている。何を思ってそうやっているのか、元親には分からない。それでもやはり、家康が嫌いだからだとは思えなかった。そう思いたいだけかもしれなかったが、そう思う。
「結局何があいつのためになるかなんて、俺らにゃわかんねーだろ。だったらもう、好きにやるしかねぇんじゃねぇの」
 政宗はそう言って、冷めたポテトをざらざらと口に流し込んだ。元親はそれでも家康の幸福を望んで止まなかったが、しかしどうすればいいかなんて分からないのだ。元親は家康の力になりたい。しかし嫌がられたくない。もう、一人にしてやりたくないのだ。政宗はもはや興味を失くしたように携帯を弄り始めていた。
  2010/10・28


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