■群集の波



 天下統一おめでとう家康さん。そう言って金吾はにっこり笑った。久しく見ていなかった友人の満身の笑みに、家康は一度目を見張ったが、ああ、といつもどおりの微笑を浮かべ、応えるように頷いた。
 戦乱の世は開け、家康を筆頭に東軍の者によって天下は平和への道を進み始めている。戦に駆り出されていた兵は皆武器を捨て家に帰り、束の間ではなくなった長い平和に涙を流して喜んだ。飢えも病も無くなったわけでは無いが、人と人が己が何のために戦っているのかさえ分からなくなってしまう程の乱れた殺しあいの日々はもう来ない。
 縁側に二人並んで座り、用意された茶を啜って互いの様子を話し合う。金吾は、家康が忙しすぎて眼が回りそうだと言うのをくすくすと笑って、「だから僕が来たんだ」とそう言う。
「うん?」
「息抜きに話し相手になってやって欲しいって。僕も家康さんとお話したくて来たから、気にしないでね」
 家康は脳裏に己に休ませようと虎視眈々と廊下で様子を伺う家臣を思い浮かべた。金吾が来ることは以前から分かっていたが、恐らくそのために日程も勝手に準備していたのだろう。廊下には人っ子一人見当たらない。忙しいはずであるのに慌しく歩く音も聞こえず、遠くから賑わう城下町の喧騒が聞こえるだけである。
「家康さん、あのさ」
「ああ」
「ずっと言いたかったんだ。天下を統一してくれてありがとうって。戦を終わらせてくれてありがとう。あとね、裏切り者の僕を受け入れてくれて」
「・・・・・・ああ」
 指を折りながら、ありがとう、ありがとうと繰り返すその小さな背に、鍋は括りつけられていない。精神安定剤の役割を担っていた彼の大切な鍋はもう持ち歩く必要がないのだろう。戦で駆りだされる必要がないので、きっといつでもどこでものんびりと食事ができるからだ。ふふふ、ところころ笑って、ああ、本当に幸せだよ、と金吾は肩を震わせた。そういえば少し太ったようでもあった。
「天海様のことだけど」
「・・・・・・ああ」
 ふと、彼の笑顔がさっと消えた。天海は関ヶ原の戦いの最中、どこかへ消えた。しかしその数日後死体は発見された。本能寺で見つかった天海だと思われる男は顔が無くなっていた。家康は結局、天海が己の知っている男であったかどうか、確認できないままだ。
「まぁ、仕方がなかったんだよ」
 金吾はそれでも哀しそうだった。哀しそうというよりは、残念そうだというべきか。
「だってあの人はもう一度死んだ身だって、よく僕に言っていたんだ。出家してからはもう、一つだけやりたいことがあって、そのために生きてるって言ってたんだ。だからもう、すぐに死んでしまう人だってことは、僕は知ってた。天海様は僕に優しかったから、死んでしまったのは哀しいけど、でも仕方がなかったんだよ」
 仕方なかったと何度も繰り返す。それは家康に言い聞かせるというよりは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、そう、天海様が死んだのは仕方が無いことだったんだ、と言う。
「哀しいのなら、泣いてもいいんだぞ、金吾」
「もういっぱい泣いたよ。今までこんなに泣いたことはないってぐらい泣いちゃった。だからもう大丈夫だよ。うん」
 頷き、じぃ、と足元を見ていた金吾は、くるりと家康を仰ぎ見た。その眼はかすかに潤んでいたが、言った通り涙は零れなかった。
「家康さんは泣いた?三成君が死んで」
「・・・・・・、・・・・・・ああ」
「僕はね、嬉しくて鍋を食べたよ」
「・・・・・・そうか」
 だって三成君は僕をぶつからね、死んでしまって、僕は安心したよ――。感情の篭らない声で金吾は言う。
「毛利・・・・・・さんも、大谷さんも、死んだって聞いて安心した。もしも家康さんが殺されちゃったら、僕も殺されちゃうしね・・・・・・。それにもう、ぶたれたり蹴られたりしなくていいんだって思ったら、凄く嬉しくて」
「そうか・・・・・・」
「三成君が死んで、僕は全然悲しくなかった。不思議だよね――知っている人が死んでるのに、全然哀しくないんだ。これって薄情だって思わない? 僕は僕が嫌になっちゃった。だってそりゃ、三成君が僕に優しかったことなんて一度も無かったけど、それでも人が死んだら哀しいものだと思ってたんだ。僕って、こんなに冷たい人間だったんだねぇ」
 ねぇ、と金吾は首を傾げる。
「どうして家康さんは三成君より僕を助けてくれたの?」
 家康は応えなかった。
「ああ、多分違うよね。僕が家康さんに助けを求めたから助けてくれたんだよね。僕が家康さんの守る沢山の人の中の一人に入ったから助けてくれたんだよね。僕と三成君、一人と一人だったら、家康君はどっちを助けてくれるんだろう――、あ、別に応えなくていいよ。聞きたくないし。でも、あのね、僕は嬉しかったんだ。だって皆僕は死んだほうがいいって言うからね。三成君は酷い人だったけど、でも強いし、それに秀吉さんが好きな人には優しいから、僕よりは人望があったんだ。でも家康さんは僕と三成君を、差別しなかったよね。家康さんは僕のことを特別優しくしてくれるわけじゃないけど、でも僕を見下さないから、大好きだよ。僕がどれだけ役に立たない奴だって分かってても、見捨てないでくれたね。家康さんは凄いなぁ。僕はね、家康さんのそう言うところ、怖かったんだけど、でも家康さんは凄い人だよね」
「畑を作ったらしいな」
「うん、そうなんだ。城の訓練所みたいな所をね、畑にして野菜を育ててるんだ。美味しい野菜を作れるように農民への税も軽くして、気がついたら僕の領地がいつの間にか農家大国みたいになってて、驚いた。あ、僕今日作った野菜を持ってきたんだ。後で食べようよ」
「そうか。ありがとう金吾」
「ううん、まぁ、鍋が食べたいだけの口実だと思ってくれていいよ。実際そうだし。おかしいよね。戦の時代が過ぎたら、僕は物凄い名君になっちゃってるんだ。少し前まで僕は物凄い邪魔者だったのに。ふふ、不思議だねぇ」
 自分のやりたいことをやっただけなんだけど。そう言う金吾を家康は目を細めて見やり、笑った。
「三成が金吾のように生きれたら良かったんだがな」
「三成君が僕のように? 何それ?」
「いや、思っただけだ。三成が鍋を食べるのが好きで、自分で畑を耕して、野菜を収穫して、他の人にお裾分けをしたり、人を呼んで鍋を食べれるような男だったら」
「そうだね、三成君がそういう人だったら、殺す必要は無かったかもしれないね」
「・・・・・・そうだな」
 三成と言わず、刑部も、そうだが、と家康は笑う。金吾は少しばかり想像してから、笑えない図だね、と顔を顰めた。南蛮から聞く妖術使いが鍋をかき混ぜて高笑いしている図でも想像したのかもしれない。家康もふとそれを思いついたが、違和感が感じられなくて大笑いしてしまった。
「・・・・・・そういえば、南蛮だとこの頃に変なお祭りがあるらしいよ。名前は忘れちゃったけど、子供が幽霊に仮装して、近くの民家を訪ねまわって、お菓子をくれないと悪戯するぞ、って言って回るんだってさ。お盆みたいな風習らしいけど」
「三成に化けて鍋でも食えと? それこそ、刑部から呪われてしまいそうだなぁ。金吾、素直にお腹が空いたからすぐに鍋を食おうと言えばいいじゃないか」
「我侭を言うと家康さんの部下の人に後で怒られそうだからさ・・・」
 金吾はえへへ、と頭を掻いて恥ずかしそうに笑った。家康はありがとう、と応えたが、金吾は聞こえない振りをしたようだった。金吾は愚かでどうしようもない人間だと言うことを自分で理解している男だったが、しかし人殺しを援護するような言葉を吐いてそれでお礼を言われることが、唾棄すべきような怠惰だということは、流石に検討がついたようだった。ただ一言、家康に三成を殺したことをまったく悔やんだ様子がないということに少しだけ不思議な気持ちを抱いたが、しかしそれは、三成が死んだことにまったく同情できない己に何か言われる筋合いはないと思い込んで、ああ、あの雲魚のようだよ家康さん、鱈が食べたいねぇ、と金吾はいつものようにへらへらと笑ってみせる。家康は目を細めて、笑っているのか良く分からない顔で、そうだな、と頷いてくれた。
  2010/11・6


TOP