■吼えぬ太陽



 刑部も三成も毛利も皆死んじまえ、と黒田官兵衛は杯片手にそう吼える。酔いも回っているとはいえ、素直で悪意も見えぬ癖に人の死ぬのを望む言葉をさらりと吐くので、家康はぎくりと身を強張らせた。持っていた杯が震えて、中身が指を濡らす。
 大広間には多くの兵が酔いつぶれて眠っている。酒に強い者が未だちびちびと杯を傾かせ、小姓が風邪などを引かせぬようかけ布を持って走り回っている。官兵衛と家康、そして孫市は部屋の端でのんびり杯を空けていた。
「黒田、あれらを憎むお前の気持ちは分かるが、そう堂々と口にするな。徳川が驚いている」
「驚かせた所を斬り殺すつもりはないんだから別に良いだろうが。権現が驚こうと驚かまいと、小生にはとんと関係ないね!」
 ぐいっとまた酒を煽り、にやにやと官兵衛は笑った。家康は先ほどの言葉を咎めようか否か、迷う。しかし官兵衛は明らかに酔っている。顔は紅潮して真っ赤だ。しかし言うことははきはきとしていた。酢の物をつついて、官兵衛はずけずけと物を言う。あいつらは外道だ鬼畜だなんだと。人を何だと思っていやがるとぶつぶつ呟くのを、家康は笑って聞いた。酔っ払いの愚痴は口を挟むと面倒だと、孫市は適当に相槌を打ちながら顔色を変えずに淡々と酒を注ぐ。その豪快な飲みっぷりに家康は心の中で凄いな、と賞賛した。家康はそこまで強くはないので、専ら食べるばかりだ。
「権現、お前さんも言えばいい。三成も刑部も毛利も死んじまえってな」
「・・・・・・え」
 唐突にそういわれ、家康は言葉に詰まった。官兵衛は動きを止めた家康を、ふんと鼻で笑い、「今すぐにだって、あいつらが崖からでも落ちて死んじまえば、もう天下はお前さんのものだしな」と言う。孫市は杯に酒を注ぐのを止めて、家康をちらりと見た。家康は官兵衛の言葉を聞いて、ゆっくりと視線を己の持つ杯に移した。酒の表面に目を丸くしたままぎこちなく俯く己が映っている。
「・・・・・・そう、は、思えないな」
「お前さんはお綺麗だな。それとも何か、絶対に自分の手で殺したいってのか? まぁ、気持ちは分からんでもないがな」
「・・・・・・いや」
 いや、と家康は首を振り、杯を煽る。空にした杯を床に置き、少し思案するふうに、じっと動かなくなった。
「黒田、お前はその三人を己の手で殺したいのか?」
「まぁ、憎いからな。だが絶対に小生の手でってわけでもない。まぁただ死んでくれりゃあそれでいい。小生の気は晴れる」
 孫市は官兵衛の話題から家康を逸らせるように官兵衛の話に戻させた。家康は俯いている。再び官兵衛が愚痴を垂れる言葉に隠れ、女々しいことだ、と孫市はそう家康を詰った。すまない、と家康は少しだけ頭を上げて笑った。何故笑う、と孫市は聞きかけて、やめた。酔っ払いに関わると余計なことがないことを熟知していた。




 憎くはないし幸せにだってなってもらいたい人を殺さなければならない場合、「あいつなんて死んでしまえばいい」と言うのはどこか間違っている気がして、家康は「三成なんて死んじまえ」とはどうにも言うことができなかった。何故なら死んで欲しくないからだ。死んで欲しくないのに殺すとはこれいかに? お前さんは思っていたより迷いやすいんだな、と官兵衛は次の日、軍議を終えた時にそう言った。
「昨日のことを覚えていたのか。あんなに酔っていたのに」
「記憶はあるんだ。口の滑りが良くなっちまうが」
「お前はいつでもそうだろう」
 家康がははは、と笑えば、官兵衛はそうかねぇ、と不思議そうに首を傾げる。そんなことはどうでもいい、と官兵衛はどっかと椅子に座り、ぎぃぎぃと鳴らした。南蛮渡来のもので、政宗からの贈り物だった。家康に丁度いいほどのしつらえのものだったので、官兵衛が座ると少し窮屈そうだ。家康は何も言わず、地図を片す。
「じゃあお前さん、もしも今頃奴らが死んじまってたら悲しいのか?」
「人が死んで嬉しいことなんてないよ」
 それは本心だった。敵でも味方でもそうだ。家康は誰も憎まない。誰も嫌いにはならない。三成が死んだらどのような状況であれ悲しく思うし、刑部が死んでも悲しいだろう。毛利だってそうだ。知っている人が死ぬのはいつだって辛い。死んで嬉しい人なんていない。秀吉を殺したことだって、安心はあっても嬉しくはなかった。
「だが、死んだのならそれだけだ。ワシはしかし、結局喜ぶだろう。それでもしも豊臣が瓦解したら、兵は死なずに済む。戦は起こらずに済む」
「利益しか見てないのは毛利と似てるな、権現は。人を数で捉える辺り、そっくりだ。まぁ使い方は違うが」
「ならば官兵衛、お前は兵をどう見る?」
「兵は兵だ。小生は私情を挟む。相手は人間だからな。特別親しい奴もいるし、嫌いな奴もいる。そもそも小生はそんな多くの人を視界に納められんよ。視界が狭いからな。この通り」
 長く伸びた前髪を抓み、官兵衛はにやりと笑う。「アンタのように清く正しく公正には生きられないんでね」家康は困ったように眉間に皺を寄せるだけだった。
「ワシはお前が偶に羨ましいよ」
「奇遇だな。小生も権現が羨ましい」
「しかし、お前のようにはけして成れないだろう」
「当たり前のことを言うんだな、権現。それに小生は権現が羨ましいが、権現のようにはなりたくはないしな」
 お前は素直だなぁ、と家康は大笑いする。官兵衛は鼻を擦って、軍師に素直なんて言っても褒めてるとは思えんぞ、と唇を突き出した。
 男同士で密会か、と孫市が部屋にやってきて、小さな椅子に縮こまって座る官兵衛を一度呆れたように見やったが、大笑いをする家康に、どうしてそう変なところで不器用なのだ、とついに大きく溜息を吐いた。

  2010/10・17


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