■焔は心の臓を燃やしているか



 あのおかたのたましいは、ひとりのものではないのです。
 騎乗している謙信はそれだけで普通の人とは一線を画して美しかった。謙信の乗る馬は遠目でも目立つ美しい白毛の知的な目をした生き物で、それに乗る謙信はただただ奔るだけで絵になる。隣に控えるくのいちも居れば、武田の兵は気後れして近寄る気さえ起こさない。こういう空気は苦手だ。佐助は慣れたもので何も臆面は出さないが、幸村は少し居心地の悪さを感じた。信玄と共に敵として対するときは何も感じなかったというのに。戦場ではないということや信玄がこの場にいないというだけでこうも心を惑わされようとは、軟弱である、と腹に力を込めて、幸村は、は――、と応えた。
「それこそあのいだいなたましいは、おおくのもののこころにひきつがれるのです。わたくしのこころにもあるように、みかわのあのおとこのこころにも、もちろん、あなたにも」
「徳川家康にも」
 腹がかっと熱を持ったように感じた。上杉の軍神は徳川家康の力を評価していると、話はあっという間に日の本に広がっただろう。軍神と崇められ、敵であろうとその力を認められぬ者は阿呆に相違ないと言われるほど、戦に関わるものであれば一目置かれる上杉謙信に、面と向かって虎の後継者である、と評価された徳川家康。信玄に武田と頼むと言われ、虎らしくあらねばならぬと心に課した幸村に、これほど耳に痛いものはない。
「しかし、たけだしんげんのいしをつぐのは、たけだをつぐのは、あなたいがいにありえないのですよ、とらのわこよ」
「―――某には、未だ、わかりかねまする、上杉殿―――」
 喘ぎ喘ぎ、幸村は言う。目の前にいるというのに上杉謙信は酷く遠くにいるように見える。否、上杉謙信だけではない。それこそ徳川家康はさらに遠く、伊達政宗も、武田信玄もまた、何よりも近くにいたはずであるのに、幸村には手が届かぬ場所にいる。
「某に、一体何ができるというのか―――。否、努力を怠るつもりは御座いませぬ。人には人のできることがあると、幸村にも幸村のできることがあると、某は信じておりまする。しかし、某は立ちたいので御座います。かの武人達の立つその高みへと! 某は如何すれば、あの高みへと、上杉殿―――」
 腹が燃えるように熱かった。熱に浮かされるように汗がどっと吹き出る。熱気で視界が歪んだ。「わたしのなかのとらをみるのです。とらのわこよ。あなたもいつか、あなたのたましいとなりましょう―――」冷たい美貌の謙信は涼やかに幸村を見るだけだった。自分に返れと、水の中から己を叱咤する声が聞こえる。





 瞼を開けると道場の中だった。辺りはしんと静まっている。誰も居ない。板張りの床の中央に正座をして幸村はぐっと拳を握り締めた。汗で手は水に手をつけたかのように濡れそぼっていた。ふぅ、とゆっくりと息を吐く。腹の熱は消えうせていた。胴衣も濡れている。佐助――、と忍の名を呼ぶと、己の配下は音も無く後ろに控えた。
「随分とまぁ、長い精神統一だったじゃない」
「集中できぬのだ。仕方あるまい」
「ふーん。ま、ゆっくりやんなよ」
 佐助は水と手ぬぐいを差し出した。幸村は首の汗を拭おうとしたが、結局全身汗まみれだったので、結局井戸へ行くことにした。その場で胴衣を脱ぐと、下は脱がないでね、とからかう調子で言われた。馬鹿なことを申すな、と叱りつけ、上半身裸のまま道場から出る。外は太陽が照っていて寒いわけではなかったが、汗で濡れた体は風に当たるとそれなりに冷える。佐助は何も言わずについてきた。
「佐助、お前には苦労をかけるな」
「へ?」
 突然、ぽつりと幸村が言うので佐助は間抜けな声をあげてしまった。今どこかの忍が吹き矢でも飛ばしたら間抜けに殺されてしまうかもしれないぐらい、気が抜けてしまったようだった。頭の後ろで組んでいた腕を解いて、佐助は足を止め、な、なになにどしたの、とあからさまに引き攣った声を上げる。きょろきょろと辺りを見回したのはこの気を抜いた瞬間に何か起こらなかったのか恐れているのかもしれない。幸村はそんな佐助にも気づかず、庭の井戸からくみ上げた水に手ぬぐいを浸し、身体を拭いた。
「いや、お前だけではない。俺は本当に多くの人に支えられて生きてきた。それをさっきふと、思い至ったのだ。俺は不甲斐ない・・・・・・大将だが、それでもこんな状態でも、未だ前に進むため奮闘できる。それも全て、皆の力があるからだろう」
「あ、ああ、まぁ、そうかもね。・・・・・・でも、そうやって支えてもらうことだって大将の力故でしょ。過大評価がいいとは言わないけど、過小評価もよかないよ。大将には支えてやりたいって思わせる人望があるってことで、それは大将の力の一つだと思うけどね・・・・・・」
「そうかもしれぬ。いや、そうなのだろう。恐らくその点でも、俺は徳川殿に劣っている」
 おっと、と佐助は心の中で舌を出した。返答を間違えてしまったらしい。
「いや、武田と徳川の者達どちらが優れているという話ではない。数に差があれど、思いの強さというのはそもそも比較にならぬ。やはり、俺と徳川殿との差は、俺個人の問題故に、あるのだろうな・・・・・・」
 幸村さま、と屋敷からやってきた侍女が小袖を持ってきた。お召し物を、と幸村の汗で濡れた胴衣を代わりに持ち、一礼して下がる。侍女が屋敷に入るのを見送って、幸村は少し歩こう、と佐助に言い、庭を迂回して私室に戻ることにした。小袖を羽織るだけにするかと思えば、威厳というものをつけろと言われたのを思い出したのか、幸村はちょっと待てと言って近くの部屋で一旦着替えた。再び庭に出て、さくさくと足元の小石を踏みしめる。
「俺が徳川殿に劣る点は、上げるときりがない。俺は未熟者だ。お舘様に従い続けたこの身と、一人で歩き続けてきた徳川殿では、始めた場所からして違う。境遇も、何もかもが。しかし俺は武田を守らなければならない。武田を守るのは、俺だ。徳川殿ではない・・・・・・。彼の男が虎と称されようとも」
「そうだね。ないもの強請りしてても仕方がないしね」
「そうだ。例え、俺よりも徳川殿の方がお舘様に近かろうと、仕方がないのだ。俺は、俺なりの方法で武田を守るしかない。俺はお館様にはなれないのだから。お舘様のようにはなれたとしても、けしてお舘様にはなれない。俺は真田幸村でしかないのだ。そして徳川殿も、徳川殿だ。お舘様にはなれぬ」
 当たり前のことだが、口を挟むのをやめて佐助は聞くことに徹しようとした。幸村が一人で必死に一つ一つ考えようとしているのを感じ取ったからだった。そうだね、と小さく頷く。
「お舘様の魂は多くの者に受け継がれている。上杉殿、徳川殿、武田の者達、俺にも、勿論、お前にも受け継がれているのだろう、佐助」
「さてねぇ」
 本当は忍が武将の魂を継ぐだとか、重荷でしかないから邪魔だと言ってしまえたらいいのに、と佐助は思った。そう思う時点で、きっと幸村の言う通り、この心には武田信玄の虎の魂があるのだろう。ただそれを思い返すと、不思議と誇らしかった。胸を張って生きれる気さえしてくる。光ではない炎が裡で燃えているのだろう。凄い人だよ、と佐助は笑った。
「その中できっと、徳川殿がお舘様に近いのだろうな。魂の形、とでもいうべきなのだろうか。勿論同じというわけではない。似ているだけだ。虎として、徳川殿が最もお舘様に並べる魂の持ち主なのだろう。俺は偶に、この国を統べるべき器を持った男とは、徳川殿のような男を言うのだろうと思うようになった」
「・・・・・・」
「だからといって目の前で譲るつもりはない」
 きっぱりと言い切る。幸村は縁側に座り込んだ。通りかかった侍女が幸村様、お茶をお持ちします、と言って下がった。幸村は頷いて、佐助に隣に座るよう促す。佐助は辺りを見回し、結局言われた通りに座った。鳥の鳴く声が塀の向こうから聞こえてくる、静かな昼下がりだ。
「お舘様は偉大な方だ。多くの者を導く存在だ。誰もがお舘様に憧れるが、お舘様と同じ地に立つ者はそういない。それは、目標がお舘様だから、なのではないかと思うようになった」
「・・・・・・っと、どういうこと?」
「俺はお舘様の隣に立つ以上のことを考えたことはなかった。お舘様を支え、役に立つことだけが生きがいだった。しかしその場合、けしてお舘様を越えないということが前提条件だろう。だが、徳川殿はお館様を手本にしておきながら、お舘様ではない、違う先を見ている。俺よりもずっと、遠くを見ている」
 俺と、偉大な武人達との差は、そこだ。幸村はゆっくりと言う。目指している場所も、始まりの位置も、俺は違うのだ。
「お舘様のためだけを考え生きることが悪いとは俺にはどうしても思えぬ、が、しかし民のことを考えず民を守れるはずがないのは自明の理だ。そうだろう。国主とはそういうものであるのだろう。己自身をわかっておらぬ者が、己の確固たる信念を通せぬ者が、彼らと同じ場所にはけして立てぬ」
「それで、大将はどうするの」
「俺はお館様を視界から離すことなどできぬ。一人で民を守れるほど強くありたいと思うと同時に、お舘様が今すぐにでも病が治り、戻ってきて下さればと思う。ただそれは、お舘様への甘えではない。それだけは確かだ。俺は武田の役に立ちたい。武田を守りたい。あの武人達にけして遅れをとらぬ男になりたい・・・・・・」
「そうだね」
「俺は、同じように虎の魂を継ぐ者として、徳川殿だけにはけして負けたくない。お舘様のためにも、徳川殿のためにも、この俺の、魂のためにも。虎の魂を持つ者の一人として、誇れる武人でありたいのだ」
 うん、うん、と佐助はゆっくりと頷く。幸村は手を握り締め、じっと拳を見た。何を思っているのだろう、と佐助は思う。殴り合い、気持ちをぶつけあった武田信玄とのやりとりだろか、今まさに戦場で傷だらけの拳を握り、太陽の如き光で民を照らす徳川家康のことだろうか、それとも幾度と鎬を削りあい命の奪い合いをした伊達政宗のことだろうか。長い付き合いだったが、この数ヶ月のうちに様々な困難を一人で走ってきた幸村の顔は、酷く歳を食ったように見せた。若虎は既に虎足り得るほどまで大きくなった。
「劣っているのが、悔しかった。この俺が一人まごついているうちに、彼らはその先を突き進む。だが俺はようやく、彼らに槍を届かせるに至ったのではないだろうか」
 決戦の日は近い。ようやく侍女が茶を持ってきた。会話は途切れる。彼女は二人分の茶を用意してきて、二人に頭を下げてからさがった。佐助、最後まで見届けて欲しい。幸村は滲むような声を上げて、そう佐助に言う。真正面から目を見られて、そういえば久しぶりだな、と思った。かれこれ幸村のことは、下げた頭しか見ていない気がする。幸村がやたらと頭を下げる上、佐助がすぐに目をそらしてしまうからだった。佐助は縁側から降りて、その場で綺麗に足をたたんで頭を下げる。忍のようにこうやって彼に頭を下げられるのも、あと何度になるのだろう。幸村はうむ、と頷く。そして熱い茶を一気に飲み干すと、俺は部屋に戻る、と言って屋敷に入った。
「佐助、お前は俺の恩人だ。礼を言う」
「勿体無きお言葉」
 たん、と襖が閉まっても、佐助はしばらく頭が上げられなかった。涙は出なかったが胸がいっぱいで、呼吸をするのさえ躊躇われたのだ。あんたの命はけして守る。当たり前の約束を、何度も何度もこころで唱えた。虎は心で燃えている。
  2010/10・17


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