■Iが生まれ落ちる陽



 やった!!
 三成は刀を投げ捨て歓喜に打ち震えた。胸に渦巻いていた憎悪の渦が、すっかりさっぱり消えて無くなっている。体が軽い。全てを失った気分だ。身に着ける鎧も何ら重さを感じない。楽園とはこのようなものであると言われれば、これがそうかと納得していしまいそうである。秀吉様、半兵衛様、私はやり遂げました、貴方方のため! 貴方の仇がとれたのです! ああ―――!
 足元に倒れる男は血の海に沈んでいる。腹を刺し貫いた場所からとめどなく血液が溢れて、地面を赤黒く濡らしていた。人間の血はどれも同じような色をしているものだと思ったが、男の血は格別に赤い気がする。美しい花のような赤だ。
 ははは、ざまをみろ、家康、すべてお前がわるいのだ。すべて、おまえのせいだ。
 お前が秀吉さまを裏切ったから、お前が私を裏切ったから、お前が豊臣ではないものを選んだからだ、そうだ、すべてお前が引き起こしたお前の咎だ。
 ふと、辺りはしんと静まり返っているのに気がついた。法螺が遠くで鳴っている。息を切らして走ってやってきた徳川の雑兵が、入り口でつぎつぎと呆然と座り込み、そしてわっと、泣き叫んだ。いえやすさま、いえやすさま、とそれらは死んだ男の名を呼んで嘆く。慟哭がまるで嵐のように広まっていく。家康様―――。それがどのような意味を持つのかさえ分からなくなってしまうほど、多くの声が泣き叫ぶ。
 十万の人間が一人の人間の名を呼び叫ぶ。
 なんだこれは。なんだこれは。こんなものは、嘘だ。そうだ、この地には今、秀吉様を失った私が、十万人いるのだ。耳元で誰かが笑った。慟哭が慟哭を呼び、絶望の渦がこの死んだ太陽を忠心に蠢く。血に酔い人を殺すことがまったく気にならぬ戦場で、誰も彼もが正気に返り、泣き叫ぶ人間達の恐るべき悲しみを受けて誰もが己を責める。なんという、ことを、してしまったのだろう―――。
 その中で、刑部がいつものように笑っていた。いつものようにではない。心の底から、幸せを噛み締めるように、大笑いしている。絶望に、慟哭に負けて、その笑い声はただの雑音に等しい。それでも、刑部は笑っていた。腹の底から、げらげらと笑っていた。
 お前はどっちだ? 後ろに立つ男が言う。お前は泣くか笑うか、どちらなのだと、どうでもよさそうに男は言った。贋物の太陽が照っていた。おのれいしだみつなり―――慟哭と共に私の腹から刃が生えた。






 ざまをみさらせ徳川家康―――。
 げらげらげらげらと哄笑が地を這う。波のように絶望の声と悲観の悲鳴が上がる戦場で、我の笑い声がやけに響いた。さんざめく不幸の雨よ降り注げ、この地に生きる全ての生き物に不幸を! 食べ物を失くし指針を失い、夜盗が蔓延り病が伝染し、全ての生き物を不幸せな死を遂げろ。お前たちの太陽はもう昇らぬ。お前たちの太陽はけしてお前らを照らさぬ。ざまをみろざまをみろ幸せな人間は全て死ね!
 地に横たわる徳川の死体をぼんやりと見下ろし、三成はそれを不思議そう見下ろしていた。刃は地に落ちている。殺す相手はもう居ない。生きる意味も価値もない。憎しみだけで生きた生き物の抜け殻がそこにあった。哀れな凶王三成、お前はこれからどう生きる。放っといても死ぬだけだ。死に方ぐらいは選ばせてやろう。なんといっても我はお前の友なのだから。我はそう言った。三成は、ああ、と頷いたばかりだ。見下ろし続けても徳川は生き返らぬ。三成の時間は止まってしまった。
 しかし三成、過ぎたことはどうしようもない。お前はこれから死ぬだろう。お前が生きる道はもう無い。お前の大切なものは全て死んでしまった。可哀想な三成。硝子球は太陽の熱に当てられると熱でひび割れ砕けるしかない。馬鹿な生き物だ。哀れな生き物だ。
 ああ、それにしても徳川家康、我は死んだお前にあえて言おう。我はお前が大好きであったぞ徳川家康。お前の死体は十万もの人間に悲しみと不幸を齎し、お前の死は東軍のみならず日本全国に病と悲しみを齎すだろう。お前は不幸を撒き散らす病原体、そして三成はその病を膿んだキッカケであった。お前と三成がいることによって我の望みは叶ったのだ! ああ、なんと素晴らしい神であっただろう、お前は本当に、本当にいい男だったよ徳川。お前の死が、我への最も素晴らしい贈り物であった!
 げらげらげらげらと我は笑う。三成は動かぬまま、未だ死体を見ていた。けして動かぬ肉を、何が起こったのか理解できていないふうに見下ろしていた。後ろに迫る、徳川が殺されたことで復讐に迫る十万の大軍にも、気づかぬままに。







 お前が悪いんだ―――。
 全身に嫌な汗をかいていた。地に伏せる家康はうっすらと目を開けていて、俺を見上げている。元親、と家康は擦れた声で喘いだ。
「導いてくれ・・・・・・、長い、穏やかな、世に・・・・・・」
 家康はそう言って、小さく微笑んだ。何を期待しているのだ。何を託しているのだ。お前が悪いのに。裏切ったお前が、悪いのに。何故死んだ後のことを俺に託す。何故笑う。何故死ぬ。何故、何も、言ってくれないんだ。どうして。
 家康は目を閉じて、もう、動かない。俺は武器を投げ捨てて、その場に座り込んだ。かたかたと手が震えている。いや、全身が震えていた。恐怖か、興奮か、分からない。それでも胸がすっとすることもない。う―――、がしり、と己を抱くように両手を回し、震える身体を押さえつける。体が冷たい。陽がないからだ。冷たい空気が取り巻いている。潮の匂いが、しない。随分遠くまで来てしまった。家康を殺すために、随分遠くまで来てしまった。
 息が荒い。呼吸が、上手くできない。寒い。助けてくれ、助けてくれ。家康・・・・・・。いや、家康は殺してしまった。俺が、殺してしまった。絶望の声があちらこちらで叫ばれている。荒波のように、多くの声が悲しみを叫んでいる。家康、お前が守りたかった泰平に俺達は何故入っていなかったんだ。何故俺を捨てた。何故俺を一人にした。
「何をしている、長曾我部」
「・・・・・・」
「邪魔ぞ」
「・・・なんでこうなっちまったんだ・・・なんで、家康を殺さなきゃいけなかったんだ・・・」
「愚かな」
 後ろの男は嘲笑しただけだった。
「悩むぐらいなら何もしなければよかったのだ、馬鹿が」
 じり、と背が焦げた。振り返れば、空から目を焼くほどの光の塊が降り注いでいた。男は背を向けて離れていくところだった。てめぇ、と俺は掴みかかることも忘れて、咄嗟に後ろの家康の死体に覆いかぶさっていた。ああ、何をしているのだろう、何をしていたのだろう、家康、家康。皮膚が焼け爛れて、脳が沸騰する。顔を寄せた死んだ家康の睫毛にに、微かに涙が滲んでいるように見えたけれど、すぐに目の前は光に包まれて、何も見えなくなってしまった。
  2010/10・11


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