■すれちがう綾取り



 酷く海の穏やかな日だった。風が細波を立てるその小さな影を、暗い海から一つ一つ目で拾い上げる。月の美しい夜だ。元親は海岸にせり出した形の隠れ家の一室で背を丸めて一人酒を飲んでいた。普段は部下達とどんちゃん騒ぎの酒盛りばかりを好むのだが、たまにこういう日も愛しく思うようになった。今胸中を渦巻くのはかつての親友との思い出ばかりで、それを部下に酒の勢いで愚痴を言うと、親友を、家康を慕っていた部下達は言葉を濁す。信じたくないのだ。己が居ない隙を狙って四国を襲った軍が、家康のものだったなどと。
 それは元親も同じだ。しかし家康でないならば一体誰が? 何故徳川軍の旗が海岸に落ちていたのだろうか? 元親はぐずぐずと崩れ落ちるような思考の中で目の前が真っ暗になっているように感じた。ただ遠くに見える光は、家康のものだった。家康はいつだって元親を導く太陽だった。親友だと思っていたのに。裏切られた。
 強い酒を一気に呷ると、胸のもやもやとした感情が焼け爛れていくように感じた。思考が鈍い。自分の体だというのに、自分のもののように感じない。世間の荒波に流されて右往左往する魚のようである。
「・・・・・・家康・・・・・・」
 今、あの背の低い己の弟分のような男は元親の背中にはいない。背中には置けない。信じられないからだ。ならば横にいるのか? 元親は隣を見た。部屋の中には誰も居ない。勿論、家康がいるわけもない。冷たい潮風が夜風と絡んで吹くだけだ。家康、お前が再び俺の近くに立つ場所を定めるのならば、それはどこだ? 俺の背後か? そして前のように、俺を後ろから、貫くか?
 く、と笑いを洩らしかけた時、どんどん、と扉が叩かれた。隠し部屋になっている元親の私室の入り口は床に設置されている。元親は杯を床に置き、部屋の隅にある扉を引き上げた。アニキ、失礼しやす、と頭を除かせた男は、ちらちらと下を除きながら、「客です」と言った。
「誰だ」
「大谷吉継です。アニキと面会がしたいと」
 大谷、と元親は唇だけでその名を呟いて、分かった。客室に通せ、と答えた。酒で足元はふらついてはいない。手ぶらで出ようとして、しかし結局部屋に置いてある錨槍を持った。礼儀だなんだと戦国の世では冗談に等しい。それが豊臣の重鎮ならばなおさらだ。元親は大谷吉継という男を信じる気は毛頭なかった。同盟相手であろうと関係はない。元親が信じられる相手というのは、いまや誰一人としていないのである。



 大谷吉継は隠れ砦の奥、潮風の最も縁遠い場所の一室に座っていた。元親が武器を肩に担いで部屋にやってきた時、その姿を見て大谷は少し笑ったようだったが、結局何も言わなかった。大谷の乗る移動用の輿はすぐ横におかれていて、彼の武器である玉も揃って、置かれていた。
「どうしたよ。何の用だ」
「ひひひ、何、ちょっとした世間話をしにな。・・・・・・その前に、すまんが人払いをしてもらえるか」
「なに?」
 大谷は目を細めて引き攣った笑いを零すだけだ。
「海の男というのはどうにも体に潮の匂いがしみついているらしい。我の身にはどうにも重い。山育ちの、引き篭もりであるからな」
 はん、と元親はそれを鼻で笑い、下がりな、と部屋の前に座っていた部下達を全員部屋から遠ざけた。茶を用意した侍女が大谷の異相に少しばかり目を見張ったが、そしらぬ振りで部屋を辞した。
「これでいいのか大谷さんよ。今日はアンタ一人だけなのかい? 石田はどうした」
「三成は城に決まっておろうが。城主がほいほいと城を空ける訳がなかろ」
「で、アンタは何しに来たんだ。世間話なんてくだらねぇことで病人のアンタがうろうろしにくる所じゃねぇぜ、ここはよ」
「分かっているなら話が早いわ。ちょいとな、釘を刺しにきたのよ」
「あん?」
「主は徳川と知己であろ」
 するりとさらりと絹でも流れるかのような柔らかさで、大谷は家康の名を上げた。
「裏切らぬよう、主の本音を聞きに参ったのよ」
「・・・・・・・・・・・・へぇ。そうかい」
 元親は、胡坐を組んでいた足を組み替えた。酒気を払うように熱い茶を啜る。とん、と板の上に湯のみを置き、じとり、と大谷を見た。大谷は普段と特に代わり映えのしない装いであった。包帯で巻かれた体から露出する肉の部分は眼球程度である。不気味な男だ。元親はそう思っている。元親は大谷が好きではなかった。
 偏見、というわけではない。大谷よりも酷い怪我の者、病気の者などこの戦国では珍しくない。死体だって見慣れているのだ。奇装や異相など人の判断の価値基準にはなりはしない。そうではなく、元親はそもそも、軍師というものが嫌いだった。毛利軍の毛利元就を筆頭に、豊臣軍の亡き天才軍師竹中半兵衛も、嫌いだ。頭脳戦というものが元々苦手分野だったからだろう。長曾我部軍にも軍師はいたが、元親は卑怯な真似を嫌う性質であったから、だいたいの戦は力任せや正面突破、一応戦としての定石としての策は用いるものの、人の裏をかく行為―――そう、奇襲やら、大将の不在を狙うやら、騙し討ちやら―――許せるものではない。正面堂々殴り合いの方が、分かりやすいし、手っ取り早い。
 この大谷という男も、軍師に近い。今の豊臣軍の象徴は石田三成であるが、策を初め同盟などを指示するのはこの男だ。
「(西軍で最も得体の知れぬ男―――だったか)」
「どうなのだ」
「あ?」
「徳川を恨んでいるのだろう? 己の不在を狙い四国に残った部下を殲滅されたゆえに」
「・・・・・・・・・・・そうだ」
 西軍に入ったのは、それが原因だ。家康に復讐するためだ。問いただす―――ことも考えたが。
 使いにやった部下さえも問答無用で殺すのならば―――もはや、問答無用である。
「俺は、家康を、許さねぇ・・・・・・」
「気になることはないのか、長曾我部よ」
「・・・・・・気になること?」
「そうだ。これで寸前になって西軍を、三成を裏切られても困るでな。何か、胸につっかえるものでもあるのなら、言え」
 ぐい、と口元の包帯を指でずらし、大谷は茶を飲んだ。猫舌らしく、飲むのに時間がかかるようだが、もしかしたら内臓が弱いせいかもしれぬ、とその姿をまじまじと見るのはやめた。気になること、と元親は言葉を反駁する。気になることなら沢山ある。何故家康は己を裏切ったのか、何故四国を襲ったのか、何故、変わってしまったのか。
「そういや、アンタ、家康の野郎が豊臣にいる時、一緒に居たんだよな」
「そうだな」
「・・・・・・家康は、いつから、変わっちまったんだ? 昔の、俺の知っている家康は、良い奴だったんだ。義理を重んじる、同盟を大切にする、仲間思いの、そんな奴、だったんだぜ」
 ぽつりぽつりと家康のことを思い出せば、元親の脳裏で家康が笑う。拳をぶつけあい、夢を語り、助け、助けられ、あの小さな身体で精一杯振う槍の切っ先は、いつだって誰かを守るために戦場に向けられていたというのに。
「主は徳川と友だったか」
 友だった、と大谷は笑う。
「長曾我部よ。我はな、豊臣の一兵としてあの徳川と共に戦場に出る日も、ない訳ではなかった。あれが血を流し民を守るのを我はよく見ていた。我の目から、徳川に何か変化があったようには思えんわ」
「・・・・・・そうかい。・・・・・・じゃあ、なんで」
「何故? 長曾我部よ、主は面白いことを言う。徳川は昔から変わっていない。ならば答えは一つであろ?」
 大谷の声音は嘲笑に似ていた。元親が嫌った、人を上から見る、人を将棋駒に例えるような下種の人間の、哀れみの篭った笑い声だった。
「元から主は、徳川にとって友でもなんでも―――なかったのよ」
「・・・・・・は――――――・・・あ・・・・・・?」
 言葉を理解できず、元親は呼吸を止めた。大谷は今は笑っていない。真剣そのものだ。白目の部分が黒く濁っているので、物の怪のようでもある。元親のことを哀れむように見据え、大谷は言う。言葉を紡ぐ。
「徳川が豊臣にいるころから、我はとんと不思議であった。あの男の他人からのあの異様なまでの慕われる様子から、あの男の異常なまでの―――平等さにな。我は昔からこの身を病んでおったから、病の床から人を観察するのが趣味であった。悪趣味であるのは十二分に理解しておる。そこから見る限り、徳川は異常だわ。平和だ泰平だと謳っておきながら、三成やら太閤やら戦の申し子を忌み嫌う様子もなければ、己がどれほど罵倒を受けようが傷つく様子が微塵も見受けられぬ。我が思うにな、あれには、失うものが、なにも、ない」
「失うもの・・・・・・?」
「大切なもの、と言い換えてやろうか? あれは全てに平等だ。全てに等しく優しい。しかしなぁ、長曾我部よ、全てに優しいということは、特別なものは何もないということだ。主が親友だと思っていようが、徳川にとって、主はそこを歩く一人の人間とまったく重要性が変わらぬ存在なのだ。主はあれにとって友ではない。仲間ではない。身内ではない。相棒でもない。―――ただの人だ。我と、主、徳川にとって、三成さえも、何も価値を持たぬ」
「――――――そ、う、なのか・・・・・・?」
 そうなのか、家康、と心の中で問いかけても、それに答える者はいない。記憶の中の家康は、元親に快活に笑いかけている。誰をも安心させてくれるような、太陽のような笑みを、統べての民に、分け隔てなく、向けている。親友だと思っていた。しかし、それは、思いあがりだったの、だろうか? ただの、他の軍という括りに入る、ただの武将でしかなかったのだろうか?
 大谷は湯のみをすべて飲み干し、馳走になった、と輿に乗った。玉を動かす力か何かでぬるりと輿に一人で乗り、滑らかな動きで浮く。元親の横を通り過ぎる時、大谷は最後の一押しという風にそれにしても、と呟く。
「豊臣にいた頃、徳川の口から主の話はとんと聞かなかったものでな・・・・・・。乱破に主と徳川の関係を聞いて驚いたものよ。流石は絆とやらを掲げる男だ。どんな奴とも繋がりを持っている。あなオソロシヤ」
 ひひひ、と男の引き攣った笑い声を背で受けながら、元親はしばらく立ち上がれなかった。握り締めた拳が、ぎちりと嫌な音を立てた。





 元親はワシの、と家康はそこで言葉を区切った。今まで散々西海の鬼がどうしたこうした、昔あんなことやこんなことがあったと自慢げに語っていた家康の言葉が突然途切れたので、政宗は庭にぼんやりと移していた視線を目の前の男に戻した。家康は目の前にある湯のみを凝視して、元親は、ワシの、とゆっくり、言葉を選んでいるようだった。
「大切な、友だ」
「親友って言えばいいんじゃねぇの」
 政宗がそう言うと、家康は目を細めて眩しそうに笑った。眩しいのはこっちだ、と心の中で思いながら、政宗は家康が土産に持ってきた綺麗な作りの和菓子を真っ二つに竹串で切断した。
「お前は結構臆病だよな、家康。最近気づいたが」
「そうだな・・・・・・お前が言うなら、そうかもしれないな。ああ、確かにそうだ。ワシは怖いものばかりだ。昔から、呪いみたいなものがあってな」
「なんだそりゃ」
「ワシは大切なものをすぐ失くしてしまうんだ」
「お前がただ抜けてるだけだろ」
 はっきりと言うなよ、と家康は笑う。
「だから、大切なものを、作らないように気をつけているんだ。ワシが大切にしているもので無くなったことがないのは、忠勝ぐらいだ」
「まぁ、でけぇしな」
「・・・・・・元親は、凄いんだ。ワシが失くした大切なものを、すぐ見つけちまう」
「笛か」
「それもある」
 失くした家康の笛を元親があっさり見つけてしまったという話を、政宗は家康からも元親からも聞いたことがあった。しかも家康など元親がまるで英雄のように語るものだから、家康のことを高く評価している政宗にしてみれば、自動的に元親も凄い人間というカテゴリに入れなければならないような気がして面白くない。あれは馬鹿だ。政宗はそう思っている。悪い奴ではない。人間として気持ちがいいほどの男であるし、人望があるのも理解できる。良い人間だ。しかし、馬鹿だ。
「あの野郎が西軍に入って寂しいんだろ」
「・・・・・・ああ、否定は、できない。元親は、ワシと一緒に戦ってくれるものだと、勝手に思っていたから、な・・・・・・」
 ははは、と家康は頭を掻いて笑った。
「勝手に期待をして勝手に裏切られたと思うとは身勝手にも程があるな! ワシはやはり、こういうところがまだ青い・・・」
「泣く代わりに笑うな。どう反応すりゃいいか困るだろうが」
「・・・・・・すまん」
 家康は今日は何の気なしに大人しい。決戦が、近いからだろうか。元親が西軍に入り、そして家康に敵意を抱いているという噂は少しずつ広まり出している。ただ家康の部下が、家康の心境を案じて元親が恨みを抱いているという話は家康に届かせぬように配慮している。この数ヶ月のうちに、家康は友と呼べる人から何人も恨みを買っている。家康にかかる東軍の人々の期待は深まるばかりだというのに、家康個人の感情は完璧に殺されている。それこそ、家康本人の手によって。
「a simple problem ・・・勝てばいいんだよ。簡単なことだろ。戦がない世になってから、西海の鬼とは殴り合ってでも話しあえばいいだろうが。ま、アンタの拳とあいつの拳なら、話にならねぇと思うがな」
 家康は微笑んだだけだった。皿の上の綺麗な練り菓子は、綺麗に形を保ち続けている。政宗は湯飲みを投げ捨てようかと思った。家康のこの困った笑い顔にはどうにも弱いことは自負している。勝手に期待しているのはこっちだ。アンタを除くすべての人間が、アンタを勝手に神聖視してやがる。政宗は小さく舌打ちした。行儀が悪いですぞ、と小十郎がやってきた。家康は笑っていた。いつもの太陽のように優しく柔らかいふうに。
  2010/10・7


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