■沼地の蝶は海を知らぬ



 大谷吉継の身体がもはや動く気配さえ失ったのはつい1週間ほど前からであった。石田三成が徳川家康に関ヶ原にて討たれ、一月も経たぬうちに大谷は片腕さえ動かせなくなり、家康が用意させた山奥の邸でもう残り僅かの命を静かに引き取るのみである。己の命もあと数日だろうか、と大谷は赤く色付いた紅葉を視界の端に収めながら思った。今となってはどうでもよいことだ。どうせ三成が天下を取ろうが家康が天下を取ろうが己の死は決まっている。病み、老いた体は朽ち果てるしか末がない。戦を続けるつもりなのならば殺す、下るならば生かす、という単純明快なことを言う家康に、もはや満身創痍であった大谷が刃向かう意味が無かった。ここであの首へし折らんと飛び掛ったとしても、指の先端すら触れることもなく殺されるに決まっている。残された豊臣軍だけでも足掻き家康に一矢報いると喚き立つ輩もいたが、それはそれで下らぬ死だからやめた。大谷は満足して死ぬ人を見てもなんら嬉しくもない。苦しんで嫌がって死ぬのを見たいのだ。豊臣のために満足して死ぬのなら、苦しんで生きろと思う。家康は大谷の心情を知ってか知らずか、大谷の知らぬところで豊臣兵士の処遇を決めた。己の家に帰りたがっている雑兵は無論帰させただろうが、豊臣に命を預けた兵士が不穏分子として殺されたか否かは、知らぬ。
「刑部、お前はどうする」
 家康の問いに、大谷はどうにでもするがいい、と答えた。貴様を殺させてくれと言ってもどうせ是と言うわけがない。家康は城に招いて療養するかと問うた。しかし大谷は、結局それを蹴った。人の来ないような山小屋で、小姓を三人ほどつけて、放っておいて欲しい、と結局要望を言った。どうしても、嫌だったのだ。己の目の前で多くの人々が幸せに生きる姿を、見たくなかったのだ。
 家康は快諾した。三成の憎しみさえ、三成らしい、と笑って頷いた男である。短い間であったが共に秀吉の下で武勇を振った間柄だ。刑部の感情を慮ったのだろう。
 家康は山小屋とは言えぬほどの屋敷を大谷にあけ渡した。元々徳川の持つ屋敷の一つであるらしい。
 大谷が屋敷に入ってから、1週間ほど経つと体が持ち上がらなくなった。2週間もすれば腕が上がらぬ。3週間もすれば手も動かない。小姓は家康が用意した若い青年であり、甲斐甲斐しく大谷の世話をした。大谷はもはや癖となったふうに小姓の気分を害すような小言を何かと言ったが、家康はそれをすでに見越してか、どうにも鈍い、または無感動な男ばかりで、大谷が胸をすかっとさせるようなことは一度もなかった。外界の様子は一向に知れぬ。しかしどうせ多くの幸せが跋扈していのだと思って、それでまた気分は病む。毛利はどうなったのだろうか、死んだろうか、とたまに共に悪事を働いた男を思い出したが、結局それも与り知らぬところだ、と思い、やめた。長曾我部辺りも、家康への憎しみをどうしたのだろうとも思う。だが、今となってはどうでもよい、どうでもよい。



 家康が訪れたのは一月経ってからであった。甲冑を脱ぎ落ち着いた色合いの袴と小袖に身を包んだ男は以前ともまったく変わらぬ様子で大谷を見舞った。お忍びであるらしく、庭に忠勝が飛んで降りたとき、風が舞って庭の紅葉が大谷の部屋まで這入ってきた。すまん、と謝りながら家康は手ずから紅葉を庭に片した。小姓が茶を用意してきて、大御所相手の作法におろおろとしていたので、大谷はにやりとした。人形のように感情を変えぬ小姓ばかりであったから、このような間抜けな様子が見れて楽しいのだ。
「様子はどうだ」
「もう死ぬ」
「・・・・・・そうか」
 わかっているだろうに、家康は悲しそうな顔をした。「お前はどうやっても生きられないのだろうな、と思っていた」
「分かっていたなら何故あのとき殺さなかった? 哀れみか? 我が病死するのを待っていたか」
「馬鹿な。そんなわけないだろう・・・・・・。お前が治らないかと」
 大谷の伏せる隣に胡坐をかいて座る家康を見上げれば、家康は心の底からそう考えているようだった。大谷はふつふつと腹の底から色々なものが湧き上がるのを止められなかった。気がつけば、口がとろとろと言葉を零している。止められぬ。病のせいだ、と大谷は思った。
「主は、愚かよな。本当は主は、どうしようもない阿呆なのではないかと思うぞ。三成のことも、そうだ。何故太閤を殺したとき、共に殺さなんだ。三成が復讐することなぞ、三成を見ていればわかるだろうに」
「期待していた。時間を掛ければ、三成も人の死を乗り越えて己のやりたい道を見つけるものだと思っていた。いや、復讐など、しないと思っていたんだな。多分。わしは」
「・・・・・・主は三成の何を見ていた? 共に戦っていたとき。三成をなんだと思っていたのだ。奴は羅刹だ。悪鬼だ。亡霊だ。人のためにしか生きることを知らん。愚かで間抜けな傀儡だ。太閤のために生き太閤のために死に太閤のためだけに動くことしか知らぬ男だ。そして主が殺した」
「そうだ。そういう男だ。だが、ワシは多分、それだけじゃないと思っていた。秀吉公に惚れこんだ、三成がいるものだと思っていた。秀吉公の居なかった頃の三成は、まだ三成のために生きていたはずだろう。ワシはそれに賭けていた。従うべき男が居なくなったとき、人は自分自身の足で歩けるものだと、そう思っていた。・・・・・・三成はワシの友だった。友だと思っていた。しかしワシはあいつの全てを見ていなかった。見ていた気だったのだな。勝手に期待をして、あいつが幸せになる道がどこかにあるものだと勝手に思っていた。しかし、やはり三成は三成のままだった。まぁ、しかし、秀吉公が死んでから、三成も少しは変わったのだろうな。・・・・・・ワシを1番憎いと言ったのには、驚いた。三成はてっきり、全ての一番は秀吉公だと思っていたから」
「変えたのは主だ。徳川」
 貴様のせいだ。大谷は吐き捨てるように言った。家康はそうだな、と答えて、小姓の用意した茶を一口飲んだ。毒見もしないのか、と思った。いや、小姓は家康の手のものだが、この大谷のいる屋敷で何も懸念しないのが、なんとも口惜しい。
「大谷、お前は三成が好きだったか」
「いや、別にどうでもよかった。・・・・・・というのは、嘘だ。ああ、好きだった。あれは不幸を呼ぶ不幸の塊だ。我はアレに惚れていた。アレだけが我の希望だった」
「希望か」
「貴様のせいで、我の夢は散った。不幸の星は降り注がぬ。ああ―――口惜しい」
 幸せな奴らが憎い―――大谷はそう言う。家康は庭の紅葉を見た。庭に控える忠勝の鋼鉄の肉体に紅葉が振り落ちている。
「そう考えると、主にはそこだけは、礼を言わねばならんな。主が太閤を殺してくれたお陰で、三成は誰よりも不幸になったのだ。不幸を呼ぶ火種と成り得たのだ。三成が不幸にならねば、我の夢も夢のままであった。三成が主さえ殺してくれさえすれば、完璧だったのだが」
「刑部、お前は、三成に幸せになってもらいとは、思わなかったのか?」
「馬鹿な。いや、主を殺してほしいとは思っておったから、そうかもしれんな。しかしどうせ三成は主を殺したら死ぬしか無かろう。結局あやつは幸せになんぞなれぬ。太閤を失った三成が辿る道は統べて不幸にしか繋がらぬ」
「哀れとは思わないのか」
「ふん、哀れか。・・・・・・そうさな。まぁ・・・・・・一つぐらい、一つぐらい、あやつにも、その道が残されておればいいとは思うが。しかし、我はそんな三成は見たくないな」
「それは、三成が幸せになったら、その幸せをお前が憎んでしまうからか? 刑部。三成を憎みたくないからか」
「主は、そうやって無理に他人を善人にさせようとするな。気味が悪いわ。だから―――、だから、三成を生かすなどという愚行に出おったのだ。馬鹿が」
 水を、と大谷は喘いだ。家康はぱっと立ち上がり、廊下へ出て小姓を呼んだ。早急に水を、と頼む。すぐに水が運ばれて、家康はゆっくりと大谷の負担にならぬよう気をつけながら大谷を起き上がらせた。病んだ身体をしっかと抱きとめ、家康は水を大谷の口に運んだ。喉を嚥下させることはできるので、大谷はそれをゆっくりと飲み干す。そういえば三成が生きていた頃もこのようなことはあった、と大谷は思った。三成にこのような看護をやらせると、力加減が酷く、腕を千切られるような痛みを覚えるのだが、家康の手は大きく、その体重を片腕にかけてもまったく不安はなかった。もういい、と言うと、家康は衝撃を与えぬようゆっくりと大谷を寝かせた。
「・・・・・・もう、死ぬ」
「ああ」
「何も残すものはないし、何もしたいこともない。ハテ、我もこんなにも何も持っておらなんだか・・・・・・三成を馬鹿にはできんな」
 さっさと帰れ、主の顔を見ながら死ぬなんぞ真っ平だわ、と大谷は嘯く。家康もそれもそうだな、と笑って、盆を持って部屋から出て行く。その背も見ずに、大谷は呼び止めた。
「徳川」
「なんだ?」
「せいぜい間抜けな死に方をするよう、呪っておくわ」
「ははは、お前らしいな。死に方なんぞどうでもいいが、せめて早死にの呪いはかけてくれるなよ」
 家康は最後まで快活に笑い、小姓を呼びつけた。盆を渡し、美味い茶だったと礼を言う声を聞きながら、大谷は目を瞑った。忠勝の飛び立つ音がして、ざざぁ、ざざぁ、と木の葉の擦れあう音が響いた。大谷は海を思い出しながら、久方ぶりに何も夢を見ずに眠った。
 
  2010/10・3


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