■人のように羨んでいいぢゃないか



 足元に倒れ伏す夥しい人々。人、人、人。人の上に立つ人は雑兵と較べて重要性が違うのだと、誰かが言っていた気がするが、しかし結局、突き詰めればそれらも人だ。人の下にいるものも人であり、人の上にあるものも人である。それの何の違いがあるだろうか。死んで悲しむ人の多さだろうか? 生まれだろうか? それとも価値だろうか? 命に価値があったとして、それを量るのは誰だ? 誰が人の命の重さを、天秤にかけて見定める? 世の中には分かりたくないこと、解ることができないことが多すぎる。
 地平線に沈む太陽に照らされて、遠くまでよく見える。どこまでいっても人の屍骸が並べられている。折り重なり、積み重なり、まるで冬に積もる奥州の雪のようだ。



   ×××



 遠くで子供の笑い声がした。「(佐吉だ)」白髪の小さな子供が、背の高い男に肩車をされている。傍らに線の細い青年がいる。「(笑っている)」ワシがこうして戦場で人の死に囲まれている最中、あの子供は無邪気に笑っている。幸せを謳歌している。この後子供はまたずっと、幸せの中にいるだろう。あの、三人だけの世界で。「(幸せそうだ)」幸せそうだ。幸せそうだ。忠勝が隣にいた。ワシはその硬い手を握った。おそるおそる、ワシの手を潰さぬよう、そっと、忠勝は指の腹でワシの手の甲を撫でた。冷たい、しかしそれだけで十分だった。風の音がする。人の死肉を漁るカラスの鳴き声と一緒に、あの白髪の子供の笑い声が響いている。



   ×× ×



「幸せな奴は皆死ねばいいのに!」黒髪の子供が死体の中で泣いている。朝、己の頭を撫でてくれた忠義に厚い部下の手を握り締め、その死体にすがり付いている。しねばいいのに、しねばいいのに、しねばいいのに! 呪詛は延々と吐かれ続ける。子供の頭を撫でる手は全て地面に落ちている。泣き止まない子供は遠くで笑う子供を睨みつけている。しねばいいのに、しねばいいのに。子供を抱きしめる手も、その背を撫でる手も、何百という手は地面に伏したまま動かない。カラスが屍骸を漁って、子供を慈しんだ手を啄ばんでいる。



   × ××



「どうして我侭を言ってはいけないんだ」黒い髪の子供は己の手を離さず連れ添ってくれる機械鎧の男にしがみ付いたまま、どろりと濁った声を零す。「どうして誰も死なない世の中を望んじゃいけないんだ」「どうして奪われるのを嫌がっちゃいけないんだ」「どうして奪った人を憎んじゃいけないんだ」「どうして他の人を救うばかりで自分を救っちゃいけないんだ」どうして! どうして! どうして! 子供は叫んでいる。ワシは子供に向かって言った。

「我慢するんだ」

「いつまで我慢すればいいんだ・・・」「もう奪われたくない・・・」「ワシをたすけて」

「人に縋ってはいけない」

「どうして」

「ワシはそれを救わなければならない立場だからだ」

 立場!! 子供は悲鳴を上げて泣き崩れた。「立場が! ワシを一人にする! 立場が! 何百何千という人を! 命令一つで死体に変える!」じごくだ! お前は! これで! 



 × × ×



「お前はこれでいいのか、徳川家康」
 子供は忠勝を従え、槍を持ち、戦場の真中に立っている。人を守るために人を殺し、人を殺して人を守ることを選んだ子供だった。積み重ねられた死体よりも何倍もの多くの命を救いあげ、多くの人の心を照らし、多くの人の希望となり、多くの人を慈しむだけの、心配のされない慈しむことをされぬ一人の男の姿であった。
「これでいいんだ」
 槍を捨て、傷だらけの拳で人を打ち、殺さず、活かし、己を殺め、己を殺めることで敵を殺すことを選んだ男に、子供は聞いた。
「羨ましくないのか」
「羨ましい」
「憎くないのか」
「憎くない」
 人は幸せになる義務がある。資格がある。幸せになり、愛され、慈しみ、何かを生み出しても、咎められることはない。男が言うと、子供はふと微笑み、背後に控える巨体の男に、武器を捨てた一人きりの男の元へ向かうよう、言った。
「なら、好きにすればいい。この乱世、何をしても人は人を咎められない。それが人の生き様ならば、それが信じた道理ならば、人を殺してもそれは正義になる。好きに傷ついて好きに生きればいい」
 子供は一人で戦場に残り、そしてそれでも最後に泣きそうなほどに顔を歪めて、しかし、しかしだ、徳川家康、とそう、引き攣った声を上げた。
「人に、全ての人に、幸せになれる資格があるというならば、何故ワシはその資格を使うことが許されないんだろうか?」
 男は答えなかった。答えず、子供に背を向けた。「それを使うのは自由だ。いつだって抜け出せる。それでもワシはワシよりも他を選んだだけだ。そしてまた、ワシは三成の絆を断ち切ってでも他の絆を守ることを選んだ。ワシはワシ自身の幸せの代わりに多くの人に幸せが与えられれば、それでいいのだ。それで」
 男の背が再び長い戦場へ投じられるのを、子供は一人で見送って、良い訳ねぇだろ、ちくしょうめ、と毒づいた。それでも子供は自分自身だけの幸せに手を伸ばすことも、またできない子供だった。
   2010/9・24


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