■ひとのあいをしれ



 湯浴みをして私室に戻る最中、月明かりのみが照らす城内で唯一未だ明りの灯る部屋があったので、三成は歩みを止めた。湿った足が一度止まると地面に吸い付くようにしてくっつく。歩き出すのにまた力が必要だ。蝋の明りが燃えるのを、障子向こうに見定める。ぼやけた影が少し動いた。
「どなたか」
 気安い声だった。そうだ。ここはあの男に宛がわれた部屋だった。三成は率直に舌打ちをした。それを聞いて、影が動いた。からりと障子が開いて、三成、と少し驚いたふうに家康が呟いた。隠しもしない舌打ちで人を判断したらしい。
「何か用があるのか」
「ないに決まっているだろう」
 ならば何故ここにいる、と家康は問いかけようとして、なんとか言葉を飲み込んだ。三成の手にあの凶刃は握られていないが、どうせ機嫌を悪くしたこの男は明日の朝一番に手合わせという名目で斬りかかってくるに違いない。三成はいつだって家康に刃を向ける口実を作りたがる。番犬やら狂犬やらと囁かれる三成の噂に是と答える家康ではなかったが、否定もできないのだ。三成はじっとして動かなかったが、すぐに身を翻し私室に戻るのだろうと思われたので、家康は自ら口実を作ることにした。
「三成、酒を飲まないか」
「なに」
「美味い酒が手に入った。共に飲む相手を探していたところなんだ。明日に響かないようにするから、付き合ってくれ」
「知るか。さっさと寝ろ」
「眠れないんだ」
 反射的にそう言っていた。嘘ではない。眠る気がしないからこのような夜更けまで起きていたのだ。決められた時間に床につく生活を送っているはずであるのに、何故か今日は眠れない、と家康は言う。昼寝をしたからかもしれない、と続ければ、三成は間抜けを見下すような目を家康に向けた。
「頼む、三成。少しだけだ」
「少しだけか」
 ああ、と家康が言うと、三成はむしろ自ら家康の布団の敷かれている部屋へと入った。押しやられた家康は少したじろいだが、三成が珍しく好意的なのかは分からないが、自分と酒を飲んでくれるということの喜びと動揺をを隠し切り、障子を閉め、杯と酒を用意する。知人から贈られたもので、上等な桐箱ごと寄越された。本来ならば忠勝と共に飲むところだ。しかしこれで三成と少しでも親しくなれたら、と希望的観測を持ち、忠勝に心の中で謝罪する。
「今まで何をしていた」
「本を読んでたんだ。そこの」
 指差したのは唐渡りの武芸指南書であった。三成は書かれていることは殆ど分からなかったが、そこに入っている図などを見て、徒手空拳の指南書であるらしい。そういえばこの男が最近槍を持つところを見ていない。秀吉と半兵衛しか視界に映していなかった三成だが、視界の端に一瞬映る家康が、武器らしい武器を持つところがどうにも思い出せぬ。初めて面会した時は石突きにも刃のついている円刀の槍を持っていたはずだが。
「秀吉様の猿真似でもするつもりか。身の程を知れ」
「わしに秀吉殿の真似ができるはずもないだろう。秀吉殿の闘い方は生まれもってのあの体格や力があっての方法だ。わしが真似をしたところで似ても似付かぬだろうよ」
 しかしそれは少々違う、と家康は杯に酒を注ぎながら言う。三成が投げ捨てた本を、おいおい、結構値が張るのだぞ、と困ったように声を上げて。
「わしは独学や忠勝に倣ったことを組み合わせて自分なりによい方法を今模索中だ。それはな、いわゆる女子供など力が殆どないものでも扱える護身術を説明している」
「そんなもの憶えてどうする」
「なかなか馬鹿にできたものではないぞ。人が長年繋いで昇華させた技はどれも素晴らしいものだ」
 それに関しては三成も鼻であしらうことはない。三成も秀吉のため己に最も最適な技を身に付けたが、基礎ともなる居合いの技は昔から伝えられたものだ。押し付けられた酒を、三成はく、と呷った。酒は嫌いではない。食の良し悪しにも、勿論酒の良し悪しにも興味はなかったが、稀にこのように中々訪れぬ睡魔のため酒を飲むことはあった。安酒では中々酔えぬ。そのため気に入っている銘酒もいくつか部屋に置いてある。娯楽のために酒は飲まぬが、ただこれは金が張るのだろう、とだけは思った。そういえば家康はいい酒が、と言っていたのだったか。話を禄に聞かぬ三成はそこで家康の言葉を脳に入れた。
 家康も酒は飲んでいるらしいが、不思議と静かだ。見れば酔った様子はないが三成ではなく畳の目でも数えているのか視線は少し下がり、ぼんやりと一点を見ている。虫でもいるのかと視線の先を追っても何もない。酒を飲むと静かになる性質なのかもしれない。その方がまだ好意的になれそうだった。いつもの間抜けな笑う顔が嫌いなのだ。静かな方がいい。
「三成、お前は」
「なんだ」
「・・・・・・ああ、いや」
「喧しい。何か聞きたいのなら聞け」
 三成は苛々と家康の口ごもるのを切り捨てる。家康は聞こうというつもりではなかったらしく、困ったように目線を逸らし逸らし、杯で口を隠して、先ほど三成を呼んだのを悔いるよう眉間に皺を寄せた。
「誰かを羨ましいと思ったことがあるか」
「ない」
 はっきりと三成は答える。家康はぱちぱちと瞬きをして三成の影になった白い顔を見て、ははは、と笑った。
「だろうな」
「何故貴様は笑う」
「なに?」
「貴様が今ひとつ聞いただろう。私の問いにも答えろ。今の答えは面白かったのか」
 三成はそう言って、家康の手から酒瓶を奪った。空になった杯に酒を注ぎ足し、それで再び唇を湿らせる。家康は交替制か、と頷いて、「癖だ」と答えた。
「癖か。笑うのが」
「いや、面白いことや楽しいことがあったら勿論笑う。しかし相手の言うことが納得するものだと、これもまた笑えてくる。相手を笑っているわけではない。安心したときも笑えるな。それに近い」
「私の答えが安心したのか」
「まぁ否とは言わないな。お前らしいと納得して、安心した。それだけだ。・・・・・・と、おいおいお前今二つ聞いただろう」
「知るか。嫌なら二つ聞け」
 三成は謝罪をした事があるのだろうか、と家康は心の中で不思議に思った。問うてみようかと思ったが、睨まれそうだったのでやめた。一杯酒を飲んだら出て行くと思われたが、酒の威力かまだどしりと座ったままだ。
「じゃあ、わしの番だな。お前、怖いものはあるか」
「なんだそれは」
「質問に質問で返すなよ、三成」
「知るか。これぐらい質問のうちに入らんだろう。存外心の狭い男だな。質問の意味が分からんと言っている」
 何故か偉そうな三成は冷ややかに家康を見下しあまつさえ鼻で笑う。家康はがりがりと頭を掻いて、その通りの意味なんだがなぁ、と困ったような声音をあげた。
「よく、あるだろう。女子が虫が怖がるだとか。童子が幽霊や物の怪が怖いと言うのを聞いたことがあるだろうに。そういうものだ」
「聞いてどうする」
「いや、ただ気になっただけだ。お前には何も怖い物はないのではないかと思ってな。というか、何かを見て悲鳴を上げる姿が想像できないというべきか」
「そうだな。私も思いつかない」
 三成はそう言って、残りの杯に残った酒を全て飲み干した。そして杯を置き、すっくと立ち上がる。行くのか、と家康が問えば、そうだ。お前も寝ろ、と言い残して退出する。夜中であるので障子は静かに閉められた。家康は言われた通り杯と瓶を退かし、火を消した。障子から入り込む月明かりを頼りに布団に入る。横になれば睡魔はやってきたが、三成のあの白い幽鬼のような背を思い出して、家康はそういえば問いはあと一つ分あったのではないか、と思ったが、最後は家康の番で終わったので、いいか、と思う。しかしもう一度三成に問うことができたら、何を問うつもりだっただろうか。「秀吉殿と半兵衛殿がいなくなった世は怖ろしくないのか」とかだろうか。いや、聞けば最後、その場で手打ちにされそうなほど怒られるかもしれない。その想像は容易であった。酔っ払った頭だとこのような怖ろしい問いがぽろりと零れそうで驚く。口が緩いのも考えものだ、と家康は反省する。怒髪天を突くような三成に追い掛け回されるのは御免だ。三河武士たちにまた殿はいつまでもこりないものだと笑われてしまう。
 家康に羨ましいものは多くあったし、怖いものも数え切れないほどある。それと較べて三成のなんと強いことか。大谷などに言わせれば周りも自分も見えていないだけ、らしいが、やはりそれでも己よりもよい生き物に見える。だからといって三成になりたいわけでもなし、また成れるわけでもない。自分のできることを自分の力でやると決めたのだ。家康はとろりと瞼を落として柔らかな布団に意識を預けた。秋の虫が鳴き始めていた。
   2010/9・15


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