■対い蝶



 三成の記憶の中で大谷吉継は家康と仲が良かったはずである。仲が良かったといっても、病に身を毒されていた大谷に近づく者があまり居らず、そして家康はよく大谷に目をかけ、また大谷も珍しく家康と打ち解けていたように思えるからだった。その頃三成は秀吉に心酔し、彼の覇道を行くのを共に付き添わせていただいていたものだから、大して気に止めていなかった。大谷は軍運びに関しては半兵衛に一目置かれる男であったし、秀吉の役に立っているのだからと三成も大谷を評価していた。だが所詮は秀吉の部下である男であるし、三成の視界に入る男ではなかった。戦において大谷から助言を貰うこともあったが、全ては半兵衛の策に則って行なわれている。三成の視界に大谷は一兵と何ら変わりなく判別されていた。
 なので、大谷は三成よりも家康に傾倒していたように思う。しかし家康は誰とも仲のよくすることに長けている男であったし、大谷は基本的に自室に篭っている男であったから、三成が大谷と一番仲の良いのは誰だと聞かれれば、正答を答えられる自信はない。
 主の居なくなった大阪城の一室で目を開き、夜明けと共に身を起こした三成はそれを唐突に思い出した。夢の中で己は秀吉と半兵衛と共に戦の最中におり、そこでふと、刑部は、と辺りを見回したのだ。大谷は酷く遠くで輿の上に座しており、それの隣に家康が立っていた。二人は一緒にいたのだ。
 丁度部屋に朝餉を持ってきた侍女を突き飛ばし、三成はぐつぐつと煮えたぎる憎悪と憤怒を隠しもせず、真っ直ぐに大谷の眠る一室へ向かう。廊下の先から現れた家臣が、その鬼の形相を見て頭を下げながら壁際に寄った。
「刑部! 起きているか」
 荒々しく開けた障子の向こうで布団の上に座していた男はうっそりと三成を見上げた。包帯を替えているらしい。
「どうした三成。朝から随分と機嫌がいいな」
「良い訳があるか。刑部、貴様」
「まぁ落ち着け。朝餉を食い終えれば聞いてやろう。主の機嫌の良いわけをな」
 廊下でどうすればいいかと侍女が膳を持ったまま立ち尽くしている。三成の分も用意せよ、と大谷が言えば、あっという間に大谷の部屋に二人分の膳が用意された。三成は苛々とする様子を隠すつもりもなく、そのまま大谷に噛み付くような様子であったが、飯を食わねば話はせぬ、と大谷が言えば、流し込むように全て平らげた。大谷がまだ半分も残したままであったから、三成は首輪で繋がれた狂犬のように怒りの先をどこへ向ければいいのかと少しばかりぐるぐるとしていたが、大谷が「聞くだけなら今でもできる。相槌は期待するな」と言えば、刑部ッ! と三成は口角から泡でも飛ばす勢いで拳を畳に叩きつけた。
「貴様、私の思い違いでなければ家康と懇意にしていただろうッ!」
「おお」
 相槌に期待するなと言いながら、大谷は味噌汁を啜るのを止めて、感心したように声を洩らした。そしてひひひ、と喉の引き攣らせるような音を上げる。
「太閤しか見ておらぬと思っていたが、これは驚いた、オドロイタ。主は首に目でもついておったか」
「あの時貴様は私のことが嫌いであっただろう・・・・・・何故今こうして私についている? 家康と何故不仲となった? 貴様は秀吉様に心酔していないだろうッ」
「何故そう思う」
「貴様の理念はいつ聞いても義のため主のためだッ! 貴様が私のために動く訳がないだろう、義のためなど笑わせる!」
「ひ、ひひ、嘘ではない。主のためよ。そして我は太閤の理想に共感している。何故嘘だというのだ、三成よ」
 残念そうに呟けば、三成はぎっと大谷をきつく睨みすえる。蛇に睨まれた蛙とはこのような気持ちだろうか、と大谷は胸のうちで思った。そういえばこの男蛇ににている。恨みにしぶとい所が特に。
「ならば、家康と何故懇意にしていた」
 そこにはどうしても食らいつくらしい。しかしそういうものかもしれなかった。憎悪のぶつける相手と元友人が腹心というのも気が治まらぬものかもしれぬ。大谷はその感情はいまいち理解しがたがったが、目の前の不幸の固まりである男の喘ぐような声に笑った。人の苦しむ声はいつ聞いても耳に優しい。
「あれが我を哀れむからだろう。我はあんな奴とは仲ようしていたくはなかったのだがな、あれがどうにもしつこい。我のような病人には手を差し伸べたくて仕方がないのだろう。鬱陶しい男よ」
「・・・・・・ふん、そうか」
 大谷の言葉に三成は納得したのか、さっと立ち上がり、あっという間に部屋から出て行った。廊下を歩く音もとすとすと軽い。少し遅れて食事を終えると、同時に侍女が這入ってくる。二人分の膳を片付けて、さっさと退出してしまう。誰も居なくなった部屋の、出しっぱなしである布団の上に座したまま、大谷はふと、すぐ隣の畳を見た。徳川家康はよくここに座っていた。
 家康と大谷が友人の如き関係を持ったのは家康が豊臣傘下に下ってからすぐのことであった。先に声を掛けたのはどちらかは憶えていない。あの人懐こい男のことだから、家康の方が可能性が高いかもしれぬ。しかし大谷はその頃家康を目にかけていた。何故か? 答えは明瞭だ。家康が不幸だと思ったからだ。
 一目見ればわかる、家康は人の下につく器ではなかった。それも数日前まで戦をし合っていた、己の家臣を何人も殺した相手に下るなど、苦痛と憎悪でどうにかなりそうなほどであろうと踏んだ。大谷の予想通り、豊臣配下になってからの家康の待遇は酷いものだった。戦の先陣を切らせられ、無理難題を突きつけられ、男の言う絆とやらで結んだ部下が何百何千と死んでいく。大谷の元へ度々訪れる家康は目に見えて疲れているようだった。
 その頃の三成は随分幸福そうであったから、大谷は興味がなかった。しかし勿論、病を患い徐々に死に近づいている半兵衛を見るのは大層楽しかったし、彼が死んでからの三成や秀吉を思えば大変面白かった。しかし本当に半兵衛が死んでから、家康は徐々に明るくなっていた。半兵衛が死んでから明るくなったわけではない。ただ半兵衛が死んだ日には家康は本当に辛そうであったし、自分を苦しめる存在が片方消えたとしてもこの男は病むのかと、酷く驚いたりもした。
 半兵衛が死んでから、家康は武将として成長し始めている頃合だった。負担が増えると同時に、豊臣にいることにも慣れてきたのか、死ぬことよりも生かすこと、殺すことよりも死なせないことに躍起になっており、槍を捨て、ついに拳一つで戦に出る頃になって、大谷はこの男はどうしても不幸にならぬ、とそう判断した。それから、大谷は家康が嫌いになった。人間からまた違う段階へ昇華した生物なのか、家康を少し遠巻きに見るようになってから、家康が酷く恵まれた男であることがわかって、反吐が出そうであった。家康はまったく不幸ではない。不幸だとしてもそれを病まない。なんだあれは。許されぬ、化物め。
 家康を倦厭するようになり、周りを見るようになってから、豊臣の中に様々な人間模様が見えるようになってから、大谷は三成に目を付けた。家康が秀吉を殺したときでさえ、大谷は秀吉が死んだことよりも憎悪で狂う三成の背中に目を奪われた。そうだった。こやつが我に不幸を齎す存在、これが不幸の権化。
「そうよ、三成、我はあれが嫌いだ。ぬくぬくとしたやわい陽だまりなどこの身が腐るようだ」
 ざりざりざり、と家康が座っていた畳に爪を立て、大谷はひひひ、と声を上げて笑った。太陽を不幸にできるのは落とすしかない。永遠に太陽の昇らぬ夜を招けば、早く不幸の星も降ろうというもの。朝焼けの入らぬ部屋で、大谷はしばらく畳を削った。もはやここに座る化物もおらぬのだから、と自分に言い聞かせながら。
2010/9・13


TOP