■嫉妬するロシアンルーレット
ひっ、と小さく悲鳴を上げた女は、その手に掻き抱いた小さな幼子を曲識と軋識から隠すように壁へと後退しながら抱きしめた。がちがちと女の歯が震えて静寂が満たす室内に響いた。ぴちゃっと音を立てて、軋識のサンダルが女の夫から溢れ出る血を踏んだ。
「はっ、はっ、ああっ、お願いします、許してください、殺さないで、許して、助けて、助けて、助けて・・・」
浮かされたような感情の篭らないそんな命乞いの言葉に反応してか、女が抱きしめる子供がわっと泣き出した。一瞬静かになった室内が、うってかわって騒々しいものに変わった。
「お願いです、なんでもします、助けて、助けてください、殺さないで、殺さないで、はっ、はあっ」
縮こまる女の姿を見下ろしながら、軋識が曲識に無言と顎で促した。
それを見た曲識はきょとんとした顔で不思議そうに見返す。
「僕が殺すのかい」
「他に誰が居るっちゃか」
「僕は少女しか殺さないよ」
淡々とそう返されれば、軋識も口を噤むしかない。目の前に居るのは女だ。それも子持ち。20代を越えてるのは見れば一目瞭然だし、そう言われては軋識も「女なんだから殺せよ」とも言えない。殺す相手に限定を付けるのは、軋識のように老若男女容赦無しをモットーにしている殺人鬼とは比べ物にならない苦しみを伴うのだ。一度女なんだから、という理由で殺させてしまって箍を外れさせてしまうのは悪い。
軋識は床に立てて持っていた愚神礼讃を担ぎ上げ、顔を引き攣らせた女に振り下ろそうかとした所、寸前でその腕を止めた。
「赤ん坊ぐらい殺さないのか?」
「赤ん坊は赤ん坊。少女は少女だ。・・・やけに渋るね、殺したくないのかい?」
のんびりとした問いかけは毒を含んでいる。遠まわしに干渉を厭っているのだ。
軋識は誤魔化すようにいいや、と呟いて、頭上で止めていた愚神礼讃を持つ手に力を込めた。話しはじめた軋識と曲識を傍観していた女がまた息を詰めた。悲鳴が恐怖を孕んで軋識の耳まで届いた。
泣き喚いていた赤子の劈くような喚き声が、殺されると逆に消えた。これは面白いな、とぼんやりと軋識は思う。
振り下ろされた鈍器が女の頭部を破砕しながら、その腕に抱きかかえられていた不完全な人間モドキごと、肉片へと変貌させた。飛び散った血が八方に溢れ、床へと血の川を作る。
ついに生きている人間が居なくなった建物には一種の奇妙な沈黙が満たしていった。血と肉に固められた愚神礼讃を降れば、付着した肉と髪が飛んで、先程殺した男の死体の上に降る。
「帰ろうか」
平然と呟かれた曲識その言葉を聞けば、少しの怒りが込み上げてくる。二人で来たというのに、殺しをしたのは軋識だけだ。来なくてもいいのではないかなんてそんな考えは今更であり、当の本人は特に思うことが無いのか、漆黒の燕尾服を乱すことも無く、廊下へ出て行こうと扉に手を掛けているところだった。
「アス」
「分かってるっちゃ」
怒りを隠そうとしても、音を支配する家族には及ばない。すぐに曲識は訝しげな顔をして、「怒っているのかい」と不思議そうに首を傾げた。
「怒らせることをしたかな」
「五月蝿いっちゃ。どうでもいい、早く帰る」
肩をいからせ、曲識の横を通り過ぎて出て行こうとすると、軋識のキャラ作りでもある語尾ごと音を曲識に喰われた。
胸倉を捕まれて強制的に曲識の方を向けば、押し付けるような幼稚さで曲識の唇が軋識の唇へと齧りついていた。一つの音も零させない勢いで、曲識の舌が軋識の口内へと侵入しては、食いしばられた歯列を緩やかに辿る。
舌を噛み切ってやろうかとふとそんな物騒な思考が頭を過ぎったが、どうせ家族にはなんの手も出せないのだ。せめて調子には乗らせるものかと必死の思いで奥歯を噛み締めれば、諦めたように曲識が体を離した。
「・・・怒ってるな」
「今のは確認のつもりっちゃか!」
「いや、ご機嫌取り」
どこの世界にキスされて機嫌が治る人間が居るんだ。
そう言いたげな顔で睨んでみれば、曲識は顔色を変えないまま、「治るものだと思うけれど」と呟いた。
「好きな人にキスされれば、治るものだよ」
「それは恋愛感情持ってる奴らに限ったことだっちゃ・・・それとも何か?俺がてめぇにホの字だとでも?」
「ん、思い込みだったか」
そうさらりと返されれば、逆に言う言葉も無くしてしまう。絶句したままのんびりとした優男の顔を見れば、曲識は自嘲するかのように笑みを深めた。
「僕はアスにキスしたら、嬉しくなったよ」
「・・・・お前・・・」
元の理由が消えかかっている。柔らかく微笑んだままの曲識がゆっくりと手を伸ばしてくるのを逃げるようにして廊下に出れば、「アス」と聞き慣れた落ち着いたテノールが耳朶を叩いた。
キス以前の問題だ、と脳裏で舌打つ。
声を聞いているだけで怒りも消え去るなんて、と、ありえない仮定に、一人軋識は頭を抱えた。
2007/12・09