■手の届く距く距離に居て
 きっと届かない。
 人識はそれを理解していた。
 フローリングにねっころがって、目の前を見る。
 目の前でパソコンをいじっている軋識の背が人識の目には横に見える。その背まで、一メートル弱。
 人識の腕は長いが、ぎりぎりでどうせ、軋識届かないのだ。
 近いのに、届かない。腕を伸ばしても届かない。
 軋識を捕まえるにはどうしたらいいのだろうと、人識は思った。
 あの男のように、いっそのこと、壊して、ずたずたに引き裂いて、しまえば。
 そう考えて、溜息を吐いた。
 ああ、無茶なことは分かっているのに。
 人識はゆっくりと頭を振る。家族をどうにかしようなどと本能が拒絶反応を起こすのは分かっている。
 けれど、居なくなってほしくない。消えてほしくない。嫌いにならないでほしい。
 傲慢で、欺瞞で、我侭で、自己中な俺の意志。
 反吐が出る。
 ぶっちゃけめちゃくちゃ恥ずかしい。
 「・・・・・・・・・おい、人識」
 顔を覆い隠していたら軋識が振り返ってこっちを向いていた。
 眉根を寄せて不審そうな顔がこっちを向いていて、少し焦る。
 「あ、なに?」
 変に思われただろうか。嫌いになられるのは、嫌だ。
 「いや、背後で溜息とか吐きながら顔覆い隠してる人間を無視できるほど俺は無関心じゃねぇっちゃから・・・具合が悪いってんなら水でも持って」
 「いい」
 急いで遮る。
 「居なくならないで」
 軋識が目を丸くして人識を見た。
 「・・・・・・ひと」
 「一緒に居てくれよ、大将。今日だけでいいから」
 息が詰まる。苦しい。
 頬が火照ってくる。目が潤んできて、勢いで軋識にキスをした。
 酷く幼稚で、エロティシズムの欠片も見当たらない、押し付けるだけのキス。
 あの男みたいに、精密になんて、裏をかくことなんて出来ない。
 軋識が己よりも頭が良いことは人識はよく分かっている。
 それ故に、小細工なんて軋識を前にして意味を持たないのだ。
 少しして、人識が唇を離す。人識から涙が溢れ出た。軋識は頭を撫でて肩に人識の頭を押し付ける。
 泣きじゃくり肩を震わせる人識が悲鳴を上げた。軋識は、それにかぶせて言葉をつむいだ。
 「人識、おめー熱があるっちゃ」
 「ぅ、っ、もう、嫌だ、あ、たいしょ・・・・大将、やだよ、どうして」
 「人識、落ち着け。ベッドに行こう」
 「どうして、俺、ぁ、た、いしょう、っぅ、の家族に生まれてきたんだよ、っぁあ、も、嫌だ」
 ぐっ、と人識の手が軋識の腕を掴んだ。爪を立てられて軋識が顔を顰める。
 「どうせなら、ぅ、アンタを殺してしまいのに・・・!!あいつに何かされるぐらいなら、殺して、あぁあ、嫌だ・・・!」
 「人識、おい」
 「大将が、好きだ、愛してる、殺して、しまいたい、のに、殺せない・・・!」
 「人識」
 「嫌いにならないで、拒絶しないで、・・・・・・たいしょ、いっしょに、いてよ・・・!」
 悲鳴を上げて、人識が泣いた。
 言葉にならない呻き声が部屋を満たして、爪で裂いた皮膚からぽたりと赤が落ちて、床に咲いた。



 「38度。風邪だっちゃ」
 「・・・・・・・・・」
 けほ、と人識が目線を軋識から逸らして堰をした。
 泣いたせいで目が腫れている。
 「熱があるって言ったっちゃ」
 「だっ、大将が・・・!」
 「俺が何したって言うっちゃか?よく見ろてめえのせいで血まで出たっちゃよ」
 ほれ、と言って軋識は包帯を指差すと大げさに溜息をついた。
 「泣いて癇癪起こしたクソガキが偉そうに物事を言うもんじゃねぇっちゃ」
 「・・・・・・・」
 無言になった人識を横目で見て、溜息を吐き、軋識は立ち上がった。
 「仕事もひと段落したし、殺しも無いっちゃし、家族が病気だってんだから俺が世話するしかねぇっちゃかね・・・」
 目を見開いて人識が軋識を見る。
 「静かにしてねぇと病院に連れてくっちゃよ」
 「静かにする!」
 体を浮かせて人識が叫んだ。煩そうに軋識が顔を顰めると直ぐに口を紡いだ。
 「まぁ、しょうがないっちゃね・・・林檎でも剥くっちゃか」
 「あー、いんや、いい。何もしなくていいから」
 ここに居て、という台詞が口から出たのに。
 人識は顔を赤くして、軋識は呆れたように微笑んだ。
2006/3・12


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