■続く言葉を、僕は知らない。
 ごっ、と一度だけ、静寂が満たす部屋に固いもの同士がぶつかる音が響いた。
 フローリングに叩きつけられた男の黒い髪は、ワックスで後ろに撫で付けられていたが、それもぱらぱらと崩れ、男の血の気を失った頬を叩いた。げほっと咳き込んだ音と共に、ぱたぱたと水滴がフローリングに落ちた音が重なる。
 「っ、ぐ、あ・・・・・・」
 ごり、と男の後頭部が床とすり合わさって痛い音を立てる。苦しげに歪められた表情の先に、男を見下ろす少年が薄く口元を恍惚の笑みに歪ませて立っていた。
 その両手に、少年の得物である刃物は姿を見せてはいないが、この少年のことだ。目の前の男が殺戮対象として見えるようになれば、瞬きするよりも素早く手の内には銀色が宿るであろうことは予想がついていた。
 男はそれでも少年から目を離さないことだけに注意し、とりあえず身を起こそうと体の下に手を当てた。
 それを見越した少年は、男が微かに上体を浮かばせる前に、右足で男の肩を踏みつけると、そのまま男の腹の上に腰を下ろした。
 「逃げんなよ」
 「・・・・・・・っ、は」
 苦しげに喘ぐ男の顔を覗き込むようにして、少年は楽しくて仕方が無いとでも言うかのようににやにやと笑うと、男の乱れかけてきた前髪を勢い良く掴み、もう一度フローリングの床にその後頭部を叩きつける。今度こそ脳天が割れたのではないかと思うような激痛に男が歯を噛み締めて眉根を寄せるのに、少年は面白い玩具をこれからどうやって遊ぶのかと思案するように男の頭を両手で掴むと、自分の額と男の額を合わせた。

 「いたい?」
 「・・・・・・・・っ、・・・・・・・っぐ、ぅ・・・・」
 「いたいのはいや?」

 どろりと濁ったようなほの暗い紅の双眸が、男の澄んだ緑眼にいやと言うほど近づいて、男は微かに顔を顰めた。痛みで顰めたのかもしれないが、目の前の少年が痛々しくて見ていられないのかもしれない。
 少年の口調は酷く幼く、まるで男につけいるような舌ったらずな喋り方だったが、確実にその口調には狂気が含まれていた。
 
 「俺はお兄さんが痛がってるのは、好きだよ」
 
 大好きなあの人に似てるから、などと少年は無邪気に笑って見せると、顔をふと離し、ゆっくりと男の顔に指を這わした。瞼を撫でる指先は、男の目玉を抉り出したいのか少々長く縁をなぞっていたが、想像だけで満足したのか結局手は離れた。
 
 「痛いのは、嫌?」

 まるで馬鹿にするような声音に、男は顔を顰めるばかりだったが、少年がにっこりと可愛らしく笑って見せるのに、ついに目を逸らして瞼を閉じる。

 「大将は、・・・」

 少年が思い馳せるように呟くが、男は返答せずに黙っていた。「大将」であるべきは、少年の家族の一人で、今の自分はそれにはなれないのだから。
 少年が黙り、男も無言になった。
 またいつ、同じように少年の暴力と言える、擬似殺人が始まるのか知ったことではなかったが、男はそれを止める気は無かった。
 少年のような癇癪を起こす、年若い殺人鬼は過去に何人かはいたが、止める義務なんて持ち合わせてはいない。
 彼らは相対する人間全て殺す対象であるから、ほど良い喧嘩などもうこれからできはしない。そんなことにさせるのはこの流血なのだから、男はそれを咎めることもできない。
 少年はただでさえ、生まれたときから殺人鬼というそんな子供だから、男は黙って身を任せているのだ。
 
 「・・・・・・・・・お兄さん、死ぬ方法は、すぐ近くにあるんじゃね?」

 小さな聞こえづらい声で少年は呟くが、しかしそれは少年にはけしてできないだろう。少年が未だ己を殺せないのは、根底のところで、男がなんであるかをちゃんと判別できているからだ。
 だから、男は抵抗もせずに少年の癇癪につきあってやっている。
 
 「お前にはできるのか?」
 「・・・・・・・・・・・・・ほんとは」

 小さく、馬鹿にするような口調で、黒髪の男は聞いてみると、少年は小さな声で、自嘲するように言って見せた。

 「いっしょに、しにたい」

 その顔がちょっとだけ泣きそうに見えたのは、下から伺い見るような男の視界だったからだろうか、男は返答に困って、小さく顔を顰めた。
 少年は少しぼんやりすると、「人間失格って読んだ事ある?」と男に尋ねた。

 「あれさぁ、二回、自殺に、失敗するんだよな」

 男は黙って少年の言葉を待った。
 続いて何と言われるか男はあまり聞きたくなかったので何も言わなかったけれど、少年はただ黙って男の透いた緑の目を見ていた。
 続きの言葉は無く、少年は男の上に寝転がると、ぎゅうと両腕で男の冷たい体を抱きしめた。
 男は呆れたように少年を見たが、しかしそれでも何も言わず、少年の頭を静かに撫でてやった。
2007/9・22


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