■逃走と逃亡と暴走と暴投
 「・・・・・・・38度5分・・・・・風邪かな」
 「・・・っちゃ」
 げほっ、と咳をして、軋識は喉に絡まった痰を吐き出した。咳のし過ぎで喉はびりびりするし、熱で目元がぼやぼやする。
 先程よりはマシになったので、座って会話ができるけれども、立っていつも通りに何かできるといわれれば、それは否としか言えない状態だ。
 ベッドの横で心配そうに軋識を伺い見る双識は、本当に心配しているらしく、熱さましのシートを額に張っているというのに水で濡らしたタオルを乗せようとしたりと軽い暴挙に出ていた。家族のこととなると、暴走してしまうのがこの長男の悪い所だと思いながらも、軋識は重い溜息を洩らした。
 「もういい・・・黙って寝てればすぐに治るっちゃ・・・」
 「でもねぇ」
 「人識が来てんだろ?それに、風邪引きと同じ部屋にずっといて、お前も体調崩したらどうするっちゃか・・・」
 ふと軋識の頭の中を「馬鹿は風邪を引かない」という言葉がよぎったが、恐らくあれは「馬鹿は自分が風邪を引いたことに気がつかない。そして気づかないうちに治る」ということだろうと考え直した。
 「・・・薬は飲んだし、それにさっきより熱は下がってるっちゃ・・・静かに寝させてくれ、っ、ちゃ・・・」
 言い終わると、軋識は苦しそうに胸元を握り締めげほげほと咳き込んだ。これは言うとおりにしたほうが良いと判断して、おろおろと見苦しくも軋識の方を見つめたまま、双識が部屋から出て行った。
 がちゃっ、と扉が閉まる音を立てると、軋識の部屋の中は一瞬静寂に包まれる。少しして軋識一人の咳をする音が響いたが、そのまま軋識はベッドにもぐりこむと、くらくらする頭を枕に押し付け、熱い瞼をむりやり閉じた。



 「で、お前はここで、・・・何やってんだ」
 「看病」
 途中で、ごほっと喉に痰が絡みついたままの咳をして、軋騎はベッドの横に座る紅の髪をお団子に結い上げる女を半ば睨みつけるようにして見やった。
 かの人類最強はにやりと笑うと、さりさりと手早くナイフで林檎を兎型に切ると、(ここで少し説明を加えると、ご存知のとおりの兎ではなく、精巧な兎型である。しっぽまでちゃんと丸型になっている)軋騎に上げる素振りも見せずに頭から自分で齧って咀嚼し、そして滑らかに嚥下した。
 「じゃなかった。拷問だ。嬉しいか?嬉しいって言え」
 「何処の世界に拷問されて嬉しいって答えるマゾ男が居るんだ。俺か。俺のつもりか」
 「違ったっけ?」
 「ちがっ・・・げほっ、げほっ」
 反射的に怒鳴ろうとすると、次いで出てくるのは苦しげな咳だ。潤はからからと陽気に笑うと、器用にも手元も見ずに先程の精密な兎をあっというまに5匹作った。
 「弱いなぁ兄ちゃん。癌になってもエベレスト上れるぐらい強くなってくんないと、あたしの相棒やるには100年早いぜ」
 お前の相棒なんて命がいくつあっても足りねぇだろうよと心の中で吐き捨てると、哀れにもフォークで串刺しにされた兎が丸ごと軋騎の口に押し付けられた。ぬるい果汁が口元を濡らす。
 「今なんて言った?」
 「なんもっ・・・!」
 微かに口を開いて反論しようとするも、その隙をついて完璧なタイミングで兎が口内に入ってきた。耳が引っかかって上顎が痛い。本当に何も言っていないのに、この仕打ちはあんまりだろうと叫びたくもなるが、口の中に兎の頭がつっこまれているのだから何も言えず、とりあえず前歯で兎の頭部だけを奪い去った。瑞々しい、林檎のしゃくっという音が響くと、同時に「うわ」と変な声も被った。
 「・・・・・・・・・」
 とりあえず口の中を空にしなければ何もいえないので、黙々と兎の頭を噛み砕く。部屋の入り口に立つ白衣の中年の頭をぐしゃぐしゃにする気分で歯を立てれば、随分と気分が良かった。
 兎吊木はうわぁ、と顔を情けないほど顰めさせて、形のいい女顔を何とも言えないように引き攣らせていた。無精ひげの生えるその見慣れた顔は、今や哀しそうにしょぼくれており、「それはないだろう」と薄い唇で男にしては高い声で抗議してきた。
 「そんなに兎が喰われんの嫌か?」
 「いや、兎の頭部がちょっとアレに似てて」
 「死ねよ」
 兎の頭部をやっとのことで嚥下させるも、兎吊木の一言で随分気分が悪くなった。潤はといえば、年の若い娘といえないほど、その下ネタに爆笑しており、げらげらと兎の体にもう一度フォークで突き刺してやると、ばんばんと太腿を叩いている。
 「あはははおもしれー!で、誰このおっさん」
 「式岸の恋人だとでも言っておこうか」
 「ただの電波野郎だ」
 即座に切り捨て正式名称と言っても過言ではない総称を、式岸は兎吊木を見ずに言った。
 というか、双識やら人識やらは何をしているんだ。変態に対しては手を抜くなと言っていたのだが、・・・もしや双識の変態っぷりに基準が分からなくなってきたのだろうか?いや、ならば双識ぐらいちゃんと動いてくれても・・・!
 心の中で家族を叱咤するも、ふと会話が止まっていることに気がついて頭を上げた。
 潤はふうん?とつまらなさそうな視線で兎吊木を品定めするようにじろじろと眺め回している。対して兎吊木はと言えば、そんな潤に臆面なく対峙し、いつものふふふというムカつく笑みを披露していた。
 「兄ちゃんの恋人?こんなおっさんが?兄ちゃんにゃ悪いけど、趣味悪くねぇか?」
 「おや、おやおやおや。言うじゃないか馬鹿みたいに派手な色した女の子が。しかしあれだね。我らが崇拝するあの人とは相対するような色を持ちながら、まったくどうして大胆不遜じゃあないか。ふふん、気に入ったぜ。しかし気に喰わないね。随分手懐けられてるみたいじゃないか式岸。女に対しては脊髄反射並みに牙を剥くのに」
 「・・・いや、お前らなんでそんな睨みあってんだよ」
 流石に殺気以外には疎い軋騎でも不穏な空気に気がついたのか、朦朧とする頭で二人の間に水を差した。
 しかし焼け石に水、もはや軋騎の話で不穏な空気が勃発したというのに、当の本人そっちのけで、言葉だけの戦闘が始まってしまった。手を出さない潤は、恐らく堪忍袋の緒が切れるまで手は出さないだろう。今は相手が戦闘能力皆無だというのに感づいて、相手の土俵で殺ってやろうじゃねぇかという気が立っているのか、すでに椅子から立ち上がる寸前だが、まだ兎吊木を睨みつけたままカマをかけたり色々と兎吊木を馬鹿にし続けている。
 兎吊木は潤にあえて攻撃させようと挑発することにいそしんでいた。相手が暴力という手に及んだ瞬間、口論という土俵で兎吊木の勝利が確立する。余裕そうな笑みが今も強かに浮かんでいた。
 「・・・・・・・・・・・おーい」
 「・・・・・・・・・・何やってんだ?」
 声も掛けられずに呆然とする軋騎に、そろりそろりと人識が手にプリンを持って近寄ってきた。呆れた目で潤と兎吊木を交互に見やり、軋識が同じく呆れた目で「助けてくれ」と訴えるのに、人識はプリンを一度テーブルの上に置くと、軋識を負ぶって部屋を後にした。



 「病人の部屋で何やってんだか」
 「・・・・」
 そういやあの赤い女誰だろうと人識はぼんやりと思いながら、己のベッドに軋識を横たわらせた。ふー、と息を吐いて一息ついた軋識を見ながら、人識は「なんかいるもん、ある?」と小首をかしげながら問うた。
 「・・・・・・・・隣の部屋にあるノートパソコンか、リビングにある俺の携帯、持ってきてくれねぇっちゃか」
 「・・・了解」
 じわりと汗をかく軋識に少しどきどきしながら部屋を後にした人識は、まだ恋なんてのを零崎ができるなんてこと知らなかったので、その心臓の高鳴りの意味を分からずに済んだのだが、とりあえず今日のこの頃、軋識の唯一の癒しとなったのは、人識が持ってきた携帯の向こう側で受話器を取った、年若い音楽家の殺人鬼であったり。
2007/9・21


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