■咽を潤すのは
 「随分、無防備じゃないか式岸軋騎」
 ソファで眠る軋騎を見下ろして、兎吊木は嘲った。
 急かされていたデータを写して久しぶりに外に出て、それでいて死線以外のマンションに行くなんてどれくらいなのか記憶も朧気になっているそんな俺が、他人の家に来るなんて珍しいことなのに。
 そんなことも気にも留めずに眠りこけるなんて図々しい奴だな、と兎吊木は思ってソファに手を掛け体重をかける。
 ぎしりと音を立ててソファが沈んだ。
 軋騎は目を開けない。
 普段なら怒って睨みつけてそれでもしつこかったら殴ってくるような怖い子なんだけれど、寝てるときは流石に何もしない。
 「本当強暴だよなぁ・・・其処が可愛いとも言えるんだけどね」
 そっと軋騎の髪を触る。女と違って少し痛んだような金色の髪を抓んだ。
 それでも起きないので少し呆れてきた。随分とのんきな殺人鬼なんだなと。
 「式岸」
 小さく呟く。囁くように殺めるように愛すように逃げるように。
 「俺はお前を殺したい」
 兎吊木はそっと体を屈めて軋騎に近づく。
 ぎしりとソファが悲鳴を上げる音しかしなかった。



 軋騎はそっと目を開く。窓から差し込んでいる光に眉を歪めて起き上がった。
 どれぐらい眠っていたのだったか。時計を見て自分に呆れてくる。昼飯も食わずにもう夕食を迎えようとしていた。
 がりがりと頭をかいて立ち上がる。何も食っていなかったので足元が一瞬ふらついたが、構わず歩いて冷蔵庫まで到達した。
 牛乳パックを手に取ってコップを用意する。
 そういえば、と漸く兎吊木と会う約束をしていたことを思い出す。
 兎吊木に頼んでいたものを加工して統乃に渡す予定だったものをぎりぎりまで奴が引きこもって持ってこなかった。それを何か良いことでもあったのか今日ここに来るとメールがいきなり送られてきたのだった。
 悪いことをしたなと思って口に手を当てた。そこでやっと―――気がつく。
 唇から血が出ていて、それでいてしかも固まっていた。
 触っても指につかない。舌で嘗めるとこびり付いた血液がはがれて傷口にぴりぴりした痛みが湧いた。
 いつ、切れたのだろうか。
 軋騎は蒼白になって寝ていたときのを思い出す。首を傾け眠っていたソファを見ると、その前においてあるテーブルの上に、自分のものではないディスクが置いてある。
 「・・・・・・・・・・・不法侵入じゃねぇか」
 軋騎はやっと呟いた。起きたばっかりなので呂律が上手く回らなかったが。
 ふと思って、軋騎は自室に向かう。
 まさか、まさかとは思うが。
 廊下を突っ切って左の扉を開けた。
 己の部屋の風景だった。
 特に変わっている所は無かった。
 そのままだったが―――――――――ベッドの上に兎吊木が仰向けで眠っていた。
 呆れて声も出なかった。
 しばらくして、やっと頭を押さえて近づく。顔は苦渋の表情で満たされていた。
 何故俺は起きなかったんだろう・・・。
 「おい、兎吊木、起きろ」
 このまま寝かせるわけにもいかないと思って後ろでに扉を閉めてベッドに近づく。
 ぴくりとも動かなかった。
 顔が整っているし、しかも色白なので顔に目が行く。まるで死んでいるようだった。
 むしろ殺意が湧いてきた。
 「おい馬鹿」
 やっと、兎吊木が目を開けた。とろんとした寝ぼけ眼で軋騎を見る。
 そしてふふふと妖艶に笑う。
 何が楽しいのか理解できないので、一発殴って目を覚まさせようと近づくと、兎吊木は両手を軋騎に向けて広げて伸ばしてきた。
 「軋騎」
 いつものような人を食ったような笑みではなく、無邪気に笑って、手を伸ばす。
 近づいていた軋騎の手首を優しく掴んで引っ張った。
 軋騎は抵抗もせず、引っ張られるが侭にベッドに倒れこむ。
 「・・・・・・・・・何寝ぼけてんだお前」
 「寝ぼけちゃいないよ。あったかくて良い気持ちだから一緒に寝ようぜ。もれなく添い寝させてやろう」
 「添い寝を俺がするのか」
 「約束したのに客を放って寝こけてたんだからお詫びにやれよ。俺は眠い」
 「・・・・・・唇が起きたら切れてたんだが」
 「ムカついたから噛んだ」
 ぎゅっと兎吊木は軋騎を抱きしめる。
 まるで壊すようにずたずたに。
 殺人鬼を切り刻むような、酷く優しい力で。



 起きる頃には牛乳はすっかりぬるくなってしまっていたとか。
 
2006/4・15


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