■ 猫と狐



 顔を持たない友人は竹谷にとって何か人ではない生き物に見えて仕方のないときがある。そういう思ったことは率直に言ってしまう男であったから、竹谷は思った通りに鉢屋をそう評した。鉢屋は自室にごろりと寝転がりながら侵入してきた蟻をそっと指に乗せて、ぺいっと外に投げ捨てる。竹谷が小さく悲鳴を上げれば、死にはしないだろうといい加減なことを言う。
「私が狐か狸に見えるか」
「いや、そういうわけじゃないけれど。だってお前、人だろう」
 竹谷がそう返せば、鉢屋はげらげらと笑う。人じゃないと言ったのはどこのどいつだ! 板間に広がる柔らかな髪は男のものではないけれど酷く柔らかそうだったので手を伸ばしかける。それでもちらりと鉢屋が己を見上げてくる視線に驚き、その手を引っ込めた。
「いや、その、仙人みたいだと思ったんだ。天狗だとか」
「竹谷、お前いつから妖怪に詳しくなったんだ」
 鉢屋はふはは、と大袈裟に笑うと、一年坊主か、と問うた。竹谷がまとめる生物委員会の後輩に山伏の子がいたはずだ。いつか妖術が使えるか、と問われては敵わぬ、と鉢屋はいやらしく笑った。その面、人のものとは思えないのだ、と竹谷は心の中だけでなんとか毒づいた。
 獣ならば手懐けることもできるというものだが、竹谷の手に鉢屋は収まりきらない。首を撫でようものなら噛みつかれそうである。それでも心を通い合わせるにはまず触れねばならぬ、と竹谷は鉢屋の顎に手を伸ばして、そろりと撫でた。竹谷の男らしい節の固い指が鉢屋の作り物の顔をなぞる。面を剥がすつもりでないことは理解しているのか、鉢屋はハン、と鼻を慣らし、「にゃぁご」と鳴いた。その声が獣そのものであったから、驚いて手を引いた。猫又だったのか、お前は、と目を白黒させると、鉢屋はぎゃははは、と腹を抱えて転げて笑う。どたばたと騒がしかったものだから、通りかかったらしい木下教師が煩いぞ馬鹿者! と怒声を響きながらやってきた。




 少しして鉢屋三郎が猫又である、とか狐である、とかそういう笑える噂が学園内に広まった。竹谷が流した噂では無いが、鉢屋が度々野良猫に向けて猫そっくりの鳴き声を上げているのを発見されるようになったからだ。食堂できつねうどんを食う鉢屋は、お揚げを食べてる、とひそひそ話す後輩達の噂話を聞いてご満悦のようだ。最近笑いっぱなしである。雷蔵は考え込んだ結果鮭定食を持ってきて、鉢屋の向かいに座る。久々知が味噌汁を啜りながら、いい加減やめろよ、と鉢屋を註した。
「何がだよ」
「この妖怪騒ぎだよ。ここ数日で俺が何度後輩に鉢屋の尻から尻尾は生えていないかと聞かれたと思う? 背筋が冷える。気持ち悪い」
「神主さんやお祓いの人が来たら、困るねぇ」
 雷蔵は変なところを心配する。尾浜もししゃもを齧りながら、「これで冗談でした、って言ったら怒られるだろうしね」と言う。それでも鉢屋は至極楽しそうに、「それなら目の前で本当に狐に化けてやるよ。そして酒を飲んで追い払ってやろう」などと言う始末だ。久々知は溜息をついてこれ以上何も言う気はないようだし、雷蔵も馴れたもののようだ。竹谷は胡瓜のつけ物を齧りながら、ぼんやりと、「鉢屋が狐なら」ふと思ったことを口にしてしまっていた。
「飼いならせるかね」
 きょとん、と丸くなった2対の目が4人分、竹谷に注がれる。鉢屋はきょとりと目を見開いたが、すぐに冷ややかに目を細めて、やってみろよ、と言って立ち上がる。いつの間にか間食したうどんの器を棚まで置いて、さっさと出て行ってしまった。怒ったのだろうか、と竹谷は思ったけれど、久々知がそりゃいい、竹谷が飼育したなら少し大人しくもなるだろう、と言ったので、その場は笑って終わった。




 季節が変わるころにはもう噂は消えていた。常に話題の尽きないのが忍術学園だ。鉢屋の正体とは、という話題に終わりは見えないが、そんなもの常に上がる話題なので、今最も加熱しているのは潮江文次郎と食満留三郎はどちらが強いのかという話に流されてしまっている。当の本人である鉢屋も大して己の人外疑惑の話題が流れたのにも大して興味も持ってはおらぬようで、いつぞやと同じように部屋でごろりと横になっていた。竹谷もそんな噂は既に遠い昔の懐かしい話のように思えていたので、そんな話を口にすることもなかった。鉢屋はふと胡坐をかいて猫の首をなでる竹谷を見上げて、竹谷、と名を呼んだ。
「なんだ」
「私のことも撫でてくれ」
 は、と竹谷が鉢屋を見下ろせば、鉢屋はごろりとまた俯きに転がって、上目遣いに竹谷を見た。気持ちが悪いと一笑に伏してもよかったが、竹谷はそれも面倒だったので撫でることにした。膝上の猫が竹谷の手が離れるのを残念がるように転がるが、竹谷は鉢屋へ手を伸ばす。いつぞやのように顎を撫でかけて、思いなおして頭を撫でる。ぐりぐり、と子供の頭を撫でるようにやれば、鉢屋はうぶ、と呻いて、そして今度はけーん、と狐の声を上げた。不満気だったので、鉢屋はやはりひとだった、と竹谷はなんとなく、そう判断した。
2010/09・13


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