■ ことばはいらない



 フェリックス・ウォーケン宛の手紙が来たのはイブ・ジェノアードの別邸、つまるところジャグジー一味が寝床としている屋敷にだった。住まわせていただいてる身として今日もいつものようにせめてもの掃除や手入れに精を出していたジャグジー一味であったが、初めてやってきた配達員が渡した手紙とその宛名を見て驚いた。クレア・スタンフィールドという名から伝説の殺し屋であるフェリックス・ウォーケンへと名前を変えた男は偶に己の彼女に会うために屋敷に来るが、基本的にどこで何をしているかわからない男だ。巷で有名な情報屋、D・D社にでも聞いて数日に一度は訪れる場所として、ここへ手紙が来たのかもしれないとジャグジーは思い、結局その手紙は男の彼女であるシャーネへと渡された。
「誰が渡してもいいとは思うけど、やっぱり人の私物を僕らが持ってていいとはあまり思えないしさ・・・、それに僕らの中の誰かが持ってたりして、フェリックスさんと擦れ違いになって結局渡せないなんてこと、あるかもしれないし・・・っ! ほ、ほら、シャーネさんが持っていればフェリックスさんは絶対に会えるだろうしさ、それに、も、もしも僕が持ってたとして、手紙を破っちゃったりなんてしたらっ・・・っ!!」
 言っている間に手紙を破くことや無くすことを想像してか、ジャグジーの大きな茶色の目にぶわっと涙が浮かんだ。ナイフのような刺青がぐしゃりと歪む。フェリックスが怖くて泣くというよりは単純に他人の私物を破くことの申し訳なさで泣いたのだろう。背後に控えていたニースがほらほら、手紙が濡れちゃうよ、と嗜める。ジャグジーははっと顔を上げて、だ、だから! と手紙をシャーネに渡す。勢いに乗せられて手に取ると、よろしくお願いしますね、シャーネさん、とジャグジーはほっとしたように笑って、シャーネを置いて再び階下の掃除へ向かってしまった。階段の横から覗いていた子供達を、ニースが散らしていく。手元に残った上質な封筒の手紙を見下ろし、シャーネは一先ず部屋に置いてこようと思い、自分に宛がわれた部屋へと向かった。



 それからフェリックスが来たのはその二日後だった。王者のごとく大きな態度で堂々と正門を開け放ちやってきた赤毛の男に、ジャグジーは毎回のようにぴぃぴぃと泣き出したが、フェリックスを見てああっフェリックスさん、と満面の笑顔を見せる。そんな不可思議な反応を見ても男は呵呵大笑しながら、おおジャグジー元気そうだな! と頭を撫でるだけだ。上階からそっと顔を見せたシャーネを見れば、ぱっと身を翻し、男は颯爽と階段を駆け上がり、久しぶりだなシャーネ! と先ほどのジャグジーなどと比べ物にならぬほど満面の笑みで彼女を抱き上げるのだが。
 シャーネの持っていた掃除用具をニースが受け取って、シャーネとフェリックスは彼女の私室へ向かった。何かおかしなことはあったか? といつものように気をつかってくる男に首を振り、シャーネはベッドの横に設置されてある抽斗から、受け取っていた手紙を取り出した。それをフェリックスへと渡す。俺にか? とシャーネからの手紙かと喜んだのも束の間、その宛名を見て、フェリックスは笑みを少しひっこめた。ただシャーネからの贈り物でないことにがっかりしただけのようだが。
 フェリックスはびりびりと封筒を開け、中から2枚の紙を取り出した。シャーネの元から書いてあるものは見えなかったが、その几帳面な文字と端々にある言葉で、仕事の依頼だろうと判断した。フェリックスに見せてくれとでも視線を送れば、きっと男はなんでもないようにそれを見せるだろう。もしかしたら声に出して読み上げるかもしれない。しかしシャーネはあまり口を出す気は無かった。もともと声は出ないのだが、シャーネはそういう男の奔放な部分に慣れない。
「ふむ」
 フェリックスは手紙を全て読み終え、それを丁寧にたたんで再び封筒へ入れた。それをコートの内ポケットに仕舞い、シャーネ、この後暇か? と聞いた。シャーネはそっと心の中で自分の掃除場所が全部終わっていないことを考えた。しかしフェリックスはかんらと笑い、「きっとジャグジーたちがやってくれるさ」と言い放つ。それはそうだろう。そもそもシャーネが掃除することを止めようとするぐらいなのだ。シャーネが自主的にやらせてほしい、と我侭を言うから、掃除をやらせてもらっているだけで、シャーネが掃除をやらない方が、ジャグジーたちは喜ぶ。
 シャーネがどういうことか、とフェリックスを見上げれば男はにこにこと笑ったまま、「ケーキを食べに行こう。美味しい店を見つけたんだ」と言った。シャーネはもしも喋れても、今は言葉を無くしただろう、と思った。



 シャーネを連れていく、とフェリックスがジャグジーに言うと、ごゆっくり、とか、車には気をつけて、とか、ジャグジーはお前はどこぞの母親のように慌しく見送った。子供達がデートデート! と騒いでいたが、フェリックスはまったく動じず、シャーネの手を掴んで屋敷から誘い出した。
 道路を手を繋いで歩くことに羞恥は憶えなかったが、しかし男があまりにも堂々としているから、とも思えた。シャーネは自分の手を握る男の大きな男らしい手の熱を感じながら、どうして私の手はこんなに冷たいのだろう、とがっかりしていた。熱を奪っている気がして、申し訳なさが込み上げてきている。手汗が滲むのも、嫌だった。
 ケーキ屋はそれほど遠くではなかった。小さなカフェテラスで、フェリックスはオススメだ、という苺のタルトを二つとコーヒーを頼んだ。テラスに出て座り、しばらく待つ。シャーネは手に滲んだ汗を拭きながら、ちら、とフェリックスを見た。
「なんだ、シャーネ」
 シャーネはふと、さっきの手紙のことを思い出した。仕事のことではないのだろうか。いついって、いつまた来てくれるのだろう。自然と期待しているような気持ちになっていることに驚きながら、シャーネは男の赤い目を離せなかった。
「さっきの手紙? あれは今日の依頼だ」
 きょとん、とシャーネは目を見開くのをとめられなかった。じゃあ、すぐ出なければならないのではないのか、と思うが、フェリックスは丁度運ばれてきたケーキとコーヒーを見て、嬉しそうに身を起こした。
「シャーネとケーキを食べる方が俺にとって重要だ」
 そうだろう? とフェリックスはシャーネに同意を求めてくる。そんなこと言われても、とシャーネは言葉に窮したが、タルトは勿論美味しそうであるし、フェリックスが自分を優先したことが少しだけ嬉しいことに気づいて驚いた。
2010/09・13


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