■ 魚が食べたマリッジ・ブルー・ドリーム

 水槽の中で、たった今弧を描いて反転した魚を目で追いかけて、舞織は「おいしそうですねぇ」と言った。
 「どれが?」
 「あれ。あの長いのです」
 「お前、よくあんなてかてかしてるやつ、美味そうなんて思うな」
 「てかてかしてるのは鱗だから、関係ないですよぉ」
 透明な分厚い水槽に両手を押し当てて中を食い入るように見つめる人識と舞織は、また新しく出てきた魚の群れに他愛のない会話を交わす。あの魚が美味そうだとか、あれはぶっちゃけ食うところないだとか、その内容はあまりにも水族館というものの中で発するには物騒極まりないものだったが、その二人の背中を見ながら、曲識は一度、「悪くない」と呟いた。
 手に持っているヴィオラのケースを床に置き、エントランスホールの向かいにある半円を描く休憩所の壁に寄りかかり、ゆっくりとそこから見える水族館の中を見回す。巨大な水槽が180度程を覆う通路には、水槽の方から降り注ぐ光りで、廊下に波の輪がゆらゆらと写っている。灯りを落とされている通路の中は薄暗かったが、水槽の手前に設置されたライトだけが幻想的に水槽の中を照らしていた。
 「初めて来たが、やはり良いな。創作意欲をかきたてられるというか。ううん・・・『金魚掬い』・・・いや、『ビニルプール』・・・か」
 ぶつぶつ聞こえてくるその単語はもしかして曲のタイトルだったりするんだろうか。そろそろ公園の中の遊具のストックも無くなってきたのかもしれない。適当にくつろぎながら水槽の中の魚を観覧する家族達を尻目に、軋識は双識が入って行ったっきり出てこない館長室を見る。すぐに終わらせてくる、と言って単身ターゲットの元に行った双識は、つい5分前に鉄製の重い扉の向こうに行ったっきりだ。愚神礼讃に体重をかけ、軋識は溜息を吐いた。これではまるっきり、休日に遊びにきたようなものではないか。はぁ、と溜息を吐くと、スタッフ専用入り口から、エプロンをした女性が出てきた。数歩移動してからようやく人識達に気づいて、きょとん、と目を丸くする。何故なら今日はここの水族館は休館日なのだ。軋識はスタッフが居たことに驚きながら、視線を向けてくる人識に顎で示した。
 「えっ、あれ?どうやって入っ・・・・!?」
 懐から人識がナイフを取り出すのを見て漸くスタッフの顔色が変わった。一歩足を動かすよりも早く、人識がスタッフの懐にもぐりこんでいる。あ、ひっ、と引き攣った悲鳴が上がった。だが、肝心の絶叫は上がらない。喉から刃物を生やした女性は最後の力で人識の手をがしっと掴んで、そのまま絶命した。



 「あれっ、どうしたの?」
 その一分後、何事も無かったかのように館長室から出てきた双識の手には血塗れの巨大な鋏が握られている。それよりも人識の足元に転がっている女の死体を見つけて、双識は目を丸くした。
 「スタッフがまだ居たっちゃ。魚の管理でもしてたんだろっちゃ」
 やれやれ、と軋識が腰を上げてさっさと帰ろうとすると、えっ、もう帰るんですか!と舞織の悲痛な声が上がった。
 今日の朝、何の約束もしていないというのに続々と人識、舞織、曲識、双識が軋識のマンションに集合した。双識は元々軋識と連絡をつけていたが、その他の連中がやってきたのはまったくの偶然だった。双識は前から目星をつけていた、零崎に敵対する男が水族館の館長を兼用してやっていることを事前に調べておいて、軋識と共に水族館へ行く予定だったのだ。
 最初は笑顔でいってらっしゃいと見送りする気満々であった舞織と曲識が、行き先が水族館だということを知ると一気に喰らいついてきた。人殺しに向かうのだから何が楽しいのやら、と軋識は思っていたが、結局水族館というものが目的だったらしい。マンションでごろごろする予定だった人識を一人残しておくと何をするか分からない、ということで強制的に人識は連れて来られている。
 「どうせなら見て行きましょうよ。どうせ出るところ同じなんですから」
 「円形状に回るだけだし。アス、別にこれから大した用もないんだろう?」
 舞織は薄暗い通路を指差しながらいかにも水族館を楽しみに来ている、といった風に言った。曲識も口調は明らかに普段と変わりないのに、言葉には強要するような強さがある。
 確かに、双識達が来ている水族館は円形状の輪になっており、通路の通りに進んでいくと結局入り口に戻るようになっている。ぐるりと一周するだけだ。双識は家族の頼みを断る気配もないし、人識も最初は乗り気ではなかったが、来たからには何もしないで帰るのももったいない、と既に先に進んでいる。待ってくださいよぉ、とすぐ後を舞織が追った。
 「・・・・」
 「ほら、そんな嫌そうな顔をするもんじゃないよ。いいじゃないか。水族館なんて初めてだろ?」
 奥へと進んでいく家族の背を憎憎しげに見送る軋識の背中を叩いて、双識は笑った。確かに、軋識は水族館に来たのは初めてだ。興味もなかった、というのが本音だが、実際来る必要がなかった。それをいうなら、双識だって来たことは無かっただろうし、曲識だってそうだろう。半ば押される形で薄暗い通路へ入っていけば、あっという間に辺りの明かりは奪われる。遠くに点々と光るライトを頼りに進めば、正方四辺形の形に明けられた壁の穴に、小さな水槽が嵌めこまれているのが数個並んでいる。人識や舞織達は各々気になる生物をまじまじと見やっている。何が楽しいのか、軋識は分からなかった。
 「すごいね。この子達ってどこから来たんだろう」
 双識はそう言って、手近にある水槽の表面を指で触れた。ライトアップされた水槽に中には、海草の間に隠れてじっとしている、赤い小さな魚が数匹、黒々とした目玉を左右へ向けている。
 水槽が嵌めこまれている場所は大人が少し屈まないと見れない場所にあったので、双識は一度しゃがみこんだ。一般男性よりはるかに背の高いこの男にすればしゃがんだ方が丁度良かった。その後ろから覗き込むように軋識が中を覗く。四つの眼球に見られても、中の魚はびくともしない。
 下にある白いプレートには長い英名の魚の名前と、どこに生息しているかというのが黒い文字で書かれている。子供が指で擦ったのか、オーストラリアという字は所所剥げていた。
 「オーストラリアじゃねぇっちゃか」
 「それは、この魚が生息する地域だろう?まぁ、本当に漁獲してきたのかもしれないけど、でもさ、もしかしたら日本で養殖されたものかもしれないだろう?」
 生まれた場所を知らないまま、こんな狭い所で生きるんだね、と双識は少し寂しそうに言った。
 「海に帰りたいって、思わないのかな」
 「さぁ。でも、別におめぇが気にすることじゃねぇと、思うっちゃけど」
 「そうだけど」
 軋識の言葉に苦笑して、双識は起き上がる。振り向き、微かな灯りに照らされる軋識を正面から見下ろして、うん、と一度頷いた。
 「そうだね。その通りだね」
 今のこの魚にとったら、今居るこの世界しかないんだものね。双識は声も出さずにそう口の中で呟いた。
 「諦めの意味じゃねぇっちゃ」
 ぶっきらぼうに呟かれた言葉に、双識は一度目を見張る。そしてうふふ、といつもの笑みを零すと、そうだね、と楽しそうに言った。
 「与えられた境遇でどれぐらい楽しむかっていうのが、大事なんだものね」
 「っちゃ」
 「うふふ、アス、なんだか前向きだね」
 すごく良いと思うよ、と双識は笑った。軋識は被っていた麦藁帽子の鍔を抑えて、少しずらす。光りが漏れる奥の通りから、人識がひょこりと頭を出して、おせーよ兄貴、大将、と叫んだ。
 「こっち凄いですよ!大きい水槽の中に硝子でできた通路があるです!」
 「え、何それ」
 興奮気味の舞織の台詞に急かされて、双識は年甲斐も無く走って行ってしまった。明るい方へと走り抜けていく長兄の背を追いながら、軋識はさっきの赤い魚を見る。海草の中に沈む赤い魚はいつの間にか移動していて、口をぱくぱくと動かして硝子に取り付けられているライトへ張り付いている。飢えていても今は餌をやる飼育委員は居ない。
 あまりにも脳裏を過ぎる少女の影は、何故か、今は無い。海に最も近いような場所で、最も遠い場所だからだろうか。血の匂いで溢れた通路に、今は家族が自分を呼ぶ声がする。軋識は笑った。曲識の台詞ではないが、悪くは無い。悪くは無かった。
2009/05・12


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