■ 煙とともに体を害す幸福

 どろどろと腹のうちに溜まっていくものは、きっと苦しみとか悲しみとかじゃないんだ。
 そんなことを唐突に呟いた兎吊木は、口に咥えた煙草の先端の灯りをゆらゆらと揺らして、その先端に溢れる灰の塊をじっと見つめている。音も無く煙草から離れた薄い灰色の残り滓は、既に用意していた真下の硝子の灰皿の中に墜落した。
 「腹に溜まったそれは消化されて体に行き渡る。体の内側から腐っていくのさ」
 精神医学気取りか、と水を差せば、まぁ聞けよ、と苦笑で返される。何が楽しいのだ。
 煙草の先端から立ち上る煙は、室内であるせいか風に遊ばれずゆっくりとただ一直線に真上へ上っていく。葬式のときの線香をふと思い出しながら、俺は手を伸ばして兎吊木の下にある灰皿に煙草を軽く叩かせた。溜まっていた灰がぽとりと落ちて、兎吊木の灰と微かに混ざる。
 「その溜まるものはなんだ?幸福か?優越感か?悦楽か?」
 「まぁ、そんなものだね」
 体の中から平和ボケするんだ、などと遅い結論を今更吐いて、けらけらと餓鬼のように兎吊木は笑う。特有の甲高い笑い声が煙と共に吐き出されて、煙草から昇っていた煙が息で揺らいだ。
 「ところで、肺に悪いから、煙草吸わないんじゃなかったのかい?」
 「今更死んで困ることは無い」
 「言えてる」
 くすくすと笑いながら再び煙草を口に挟み、兎吊木は白く濁った室内を見回す。煙草の煙によって薄く白くなった空気を眺め、「換気しないと一酸化炭素中毒になるんじゃない?」と困ったように笑った。
 「その時は心中だな」
 「おや、心中相手に俺を選んでくれるとは恐悦至極」
 「てめぇが死んだら、死線を困らせる奴が一人消えるってわけだ」
 「・・・・・ふふふ」
 即座に切り返した俺の答えに、そんなに迷惑かけてるかなぁ、と本気で悩み始めた男ににやにやと笑いが堪えきれず、俺はフィルターぎりぎりまで吸いきった煙草を灰皿の中に落とした。
 「上機嫌だな」
 「きひひ、そう思うか?」
 「ああ。家畜面してるときよりよっぽど。愉快犯みたいだ」
 言い得て妙だと思った。兎吊木もどうやら上手いこと言った気にでもなったか、ふふふ、と肩を揺らして笑った。
 「・・・・・・・・」
 「ふふ、ふふふ、ははははははは」
 「病気にでもなったか」
 「まさか、君に対してこういうこと言える日が来るとは思っていなかったから」
 くすくすと、未だ肩を揺らす兎吊木はそれこそ見たこともない姿だった。ロリコンでひきこもりのペド野郎だと思っていたが、それなりに考えられる脳を持っていたらしい。
 フィルターに達するよりも早く、兎吊木は手持ち無沙汰になった煙草を灰皿へ押し付けた。煙がゆっくりと途絶えていく。
 「もう一本吸う?」
 兎吊木は俺との間に無造作に置かれていた箱の中から残った2本を抜き出し、空になった箱を背後にあった小さなゴミ箱へ投げ捨てた。箱には細かい字で『喫煙はあなたの肺に害をもたらします』などと書いてあり、そんなことを書くぐらいなら売らなければいいのに、などと思った。そんなことを思いつつも俺は兎吊木から煙草を受け取る。真新しい煙草を抓んで、そうだ火を、などと視線を周りに向ければ、白く曇った空気の向こう、兎吊木の隣にそれはあった。
 兎吊木を挟んで向こうにあるジッポーは細かい細工の施されてある外国製のもので、兎吊木の所持物だった。双識が持っていたのはもっとシンプルだったな、などと家族のことをふと思い出しながら、素早く自分の分に火を点けた兎吊木に「貸してくれ、」と頼む。
 「・・・断る」
 「吸えとでも言うかのように煙草寄越してきたのはてめぇだろうが」
 「ん」
 いらっとした精神を押さえつけながら吐き捨てれば、兎吊木はにやにやと口に笑みを浮かべたままジッポーをむしろ遠くに置いて、火のついた煙草を咥えたまま向けてきた。
 自然的に兎吊木の顔が近づいてきたのに反射的に後退すれば、「灰が落ちるよ、」と急かす様に兎吊木は笑った。
 「・・・・・・・・」
 殴ってジッポーを奪うか、いやしかし殴ったら灰が飛ぶ、むしろ煙草が飛んでカーテンが焼けたら・・・小火騒ぎがあったらどうする、などとどうするか考えているうちに、じりじりと灰の部分は増量し、煙が立ち昇っていく。
 俺は意を決して煙草を指で押さえて先端を兎吊木の煙草の先端に押し付けた。灰がくしゃりと潰れたが、墜落するのは避けれたらしい。兎吊木のサングラスの向こうで、奴の目がにやにやと笑っていた。しかしその目の奥は相変わらずにこりとも笑っていない。俺が随分変わった後でも、こいつはまったく変わっていないのだ。その目が見るのは嫌だったので、首を傾けて視線をそらす。目を瞑るのも癪だったので、ようやく灯の点った煙草に安心して素早く身を離した。
 「ふふふ、シガーキスだね」
 それでも満足げに笑う兎吊木が酷くいらつき、俺は灯を貰った間に溜まっていた煙を吐き捨てるように吐いた。また濁っていく視界に眉根を寄せ、微かに歪んだ煙草を取る。
 「どうする?」
 「何がだ」
 含み笑いを零す兎吊木に怪訝な顔を向ければ、「煙草で心中なんて、体の中から一緒に腐っていくみたいだ」などと夢見がちなことをほざいていた。
 俺はおもむろに立ち上がり、ベランダへと繋がる扉型の窓ガラスを全開にする。紫煙は一瞬にして冷たい空気に溶かされていき、突如として襲ってきた正常な空気に逆に咽た。
 「ははは、いい気味だ」
 「てめぇ・・・」
 兎吊木はのんびりと煙草を燻らせながら、優位に立ったようなそんな笑みを口に浮かべ、誘うように片手を俺へと向けた。
 「これからは血の匂いよりも正常な空気に慣れるべきだね」
 げほ、と俺は煙で満たされてしまった肺に突如としてやってきた空気を取り入れ、もう二度と煙草は吸わない、と心に決め、まだたっぷりと残っていた煙草を忌々しげにテーブルの上の灰皿に押し付けた。
2008/03・13


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