■コーヒーカップの中の理想
「愛してくれる人が欲しかったんでしょ?」
死線の蒼の言葉は不思議と心地よかった。その通りだと思う反面、ちがう、と否定したかった。苦しかった。
「誰でも良いんでしょう?いなくならない人なら」
「違います、俺は、死線に、」
返答は微笑みに消される。
「ぐっちゃんの臆病な所は好きだよ。臆病すぎるところも、『いーちゃん』にそっくり」
「ちが、」
死線の目はうっとりと悦を含んでおり、それに映っていた俺ではなく、その向こうにある子供の幻影を追いかけていた。
「ぐっちゃんは愛されたいんでしょう?」
皆、同じことを言う。
同じことを言って、手を伸ばす振りをして、手を掴む前にどこかへ消えてしまう。
「愛してくれる人が、好きで、怖くて、愛しいんでしょ?」
「やめて、ください」
死線は嘲笑っていた。じとりと汗で湿った掌が酷く気持ちが悪い。死線はけして俺に手を伸ばすことはせず、青いマニキュアに彩られた白い指先はいつまでもシーツに沈んでいた。
式岸、と俺の名を呼ぶ声が薄い膜越しに耳に届く。ぼんやりと揺れる意識の中、テーブル越しに座っている兎吊木が怪訝な顔をしてこっちを見ていた。
「・・・・」
「珍しいな。お前が人の前で転寝するなんて」
ゆっくりと体を起こせば、にやにやと笑いながら俺を見て、兎吊木がコーヒーカップを口に運んだ。
「死線の夢を見ていた」
「なんだと羨ましい。起こして正解だったな・・・」
「陰険だなおい」
苦笑交じりに起きれば、恐らく寝る前に淹れて置いたコーヒーはぬるくなってしまっていた。どれぐらい寝ていたのだろうか。
付けっ放しだったノートパソコンを素早く切って脇に避け、一息つけば、やけに顔が火照って頭がくらくらする。
「どうかしたのかい」
「別に」
兎吊木の問いかけを振り切って、冷たいものを飲もうと冷蔵庫へと向かう。フローリングが冷たく、足元からゆっくりと覚醒していく気がした。
「式岸」
「今度は何だ」
「コーヒー」
冷蔵庫からでてくる冷気に当たりながらでも怒りで頭に熱が溜まる。ミネラルウォーターに伸ばしかけた手を止め、忌々しげに振り返れば、兎吊木がへらへらと笑いながら空のコーヒーカップを揺らしていた。
荒々しく扉を閉め、歩いてきた場所を引き返し、未だ笑い続ける兎吊木の手からカップを奪おうと手を伸ばせば、カップは兎吊木の手によってひょい、と後ろに引き戻された。
静寂。
「てめぇ・・・」
「まぁまぁ少し落ち着きなよ」
胸倉掴んで引き寄せて奪おうかと、何故かカップを取るのに躍起になりかければ、兎吊木は逆に俺の手首を掴んで俺の体を引き寄せた。慌てて転倒しないようにテーブルと兎吊木の座る椅子の背凭れに手を掛ければ、ぎりぎりまで兎吊木の顔が俺の顔に近づいてきた。
息を吐くのも分かるのではないかと思われる近距離で、兎吊木はにや、と嘲笑うように口を歪めた。
「何だ」
「愛してるよ」
「離せ」
即座に返した言葉に兎吊木が変に顔を顰めた。何だその顔は。変な期待をするな。
「予想と違う反応にお兄さんは吃驚だよ」
「お兄さん?誰のことだ?」
自分の年齢をもう一度数えなおしてみるか?
飄々と言ってのける兎吊木をとりあえず切り捨て、俺は無理やりに兎吊木からカップを奪う。・・・今更だがこいつがカップを避けさせた時点で淹れるのもやめればよかったか。
己のうっかりとした間違いに呆然とするが、未だ手首を掴んでくる兎吊木の手を引き剥がすために自分の腕を兎吊木の関節と逆に捻り上げる。痛い痛いと叫んで、一度だけで兎吊木は俺の腕を掴むのをやめた。根性が無いにも程があるだろうに。
「愛してるよ、式岸」
「なんなんだてめぇは」
嫌々と俺が吐き捨てれば、兎吊木はまるで鬼の首でもとったかのように満足げに笑い、いや、なに、と含み笑いを零した。
「恥ずかしがり屋を懐柔しようとしているのさ」
「無理だな」
「そうかな?」
くつくつと兎吊木は笑って、恐らく次に来るであろう俺の攻撃に備えてノートパソコンを閉じた。
「俺の予想だと、8割ぐらいはお前は俺に惚れてるね」
ほざいてろ。
俺は口からその言葉を出す前に、苦し紛れに近くにあったあいつの携帯電話を投げつけた。「あああああちょっ壊れっ・・・!」などと情けない悲鳴が上がったが、俺の知ったことじゃない。
コーヒーカップを握り締めた俺の手がじとりと汗で濡れて、かっと熱くなった頭の中で、俺は夢の中での死線の言葉を思い出していた。いつでも俺は彼女の思考からぬけだせないんだろうか。(しかしそれは事実を納得できない俺が死線のせいにしているだけだった。申し訳御座いません、と俺は心の中で蒼色に謝罪した。)
2008/03・11