■定例サスペンス
 零崎景識は夜中の2時過ぎの路地裏を一人ふらふらと歩いていた。最近は本格的に症状が悪化してきたのか、昼間はカプセルホテルの個室の隅に縮こまり、夜中のみ外を徘徊し、路上で泥酔して眠ってしまっている人間から財布を盗んだりとでお金を手に入れ、まったくといっていいほど他人と触れ合わない日常を送るようになっていた。
 人も殺さないし人と目も合わせない。
 完璧に医者の手に掛かるほどの精神状態なのだが、彼が体を見せてもいいと判断できるのは家族の医者のみである。そのために何十キロも離れた街へ行くのも気がひけるし、道で倒れている人間の金だけで行くことも難しい。
 そんなわけで最終的に景識が取った方法は、金も持っていてちゃんとした住居を持っている家族の下へ転がり込むことだった。



 「・・・なんですかぁその女」
 まるで昼ドラで夫の浮気しているところにやってきてしまった妻のような台詞を吐き出し、景識は目的の零崎軋識のマンションのリビングで呆然と立ち尽くした。
 リビングの大きなソファの上には胸倉を捕まれて押し倒されている軋識が引き攣った顔で景識の顔を見つめたまま固まっており、その上に馬乗りになって軋識のシャツを掴んでいる完璧なスタイルの赤い女性は「あ?」と変な声を出して景識を見ている。
 「誰あんた」
 「あんたこそ誰ですかぁー」
 驚愕の表情のまま動きを止めている軋識を放置したまま、赤色の女は訝しげな顔で景識の姿を頭の天辺から足の爪先までじろじろと見回した。景識はその視線に頭の血管がブチ切れそうになるのを本能で押し止め、せめての予防線として赤い女から視線を外した。
 やばい。こいつは何だ。家族ではない。こんなのが家族なんて、無理だ。耐えられない。あのクソ女よりも怖い。
 指先が震えるのを感じながら、景識は軋識に縋るように「軋識兄さんこの人誰ですか」と引き攣った声で聞いた。
 「あー、ええと、こいつは」
 「哀川潤だ。少年、お前の名前は?」
 ニヒルな笑みを口元に浮かべ、軋識の言葉を遮って哀川潤は挑発するように景識と向かい合う。未だ視線を合わせようともせず、景識は吐き捨てるように溜息を吐き、己の足元を睨みながら呟く。
 「不肖の名前は零崎景識でさぁ」
 「こっち向けよ零崎景識」
 そんな景識の言葉を途中でぶった切るような勢いで潤は景識を叱咤する。ひく、と景識の手が反射的に腰につけている工具を入れるためのポーチへ伸びそうになった。
 「あんたを見たくありません」
 「・・・はぁーん?なぁ兄ちゃんなんだこの滅茶苦茶生意気な眼帯美青年は。零崎ってことは家族だよな?」
 「とりあえず俺の上から退け!」
 未だ腹の上に乗って軋識の顔を訝しげに見てくるのに耐えかねて、軋識の苦しげな声が飛ぶ。しかしそんな言葉はどこ吹く風とでも言うように、潤はにやにやと笑いながら再び景識へと目を移す。
 景識は頑として面を上げず、ただじっとその場に突っ立っている。
 「ふぅん」
 「おい!潤!聞いてんのか!」
 動く気配の無い潤に苛立ち、軋識が強引に引き摺り下ろそうかと手を伸ばせば、逆にその手を掴み、潤はにやりと口に笑みを刻み、「五月蝿いぜ兄ちゃん」とその耳に囁き、
 「五月蝿い口は塞いじまうぜ?」
 とその赤い唇で喰らい付くように軋識の口へ重ね合わせようとした。
 次の瞬間、けしてそちらを見ようとしなかった景識の体が飛び跳ねるように跳躍する。
 ソファへと向かうためのテーブルに飛び乗り、体当たりでもするかのようにソファへと前進する。手には既に己の凶器である鑿を手に取り、そしてその狂気の行く先は当然、己の家族を襲っている赤い最強である。
 「はっ!」
 そんな景識を視線で捕らえるよりも素早く潤はソファの上から回避し、にやにやと哂いながら壁際へと降り立つ。景識は鑿を構えたまま軋識のすぐ横に己の四肢を床にたたき付けるようにして着地し、ぎらぎらと潤を睨みつけながら低く、言い聞かせるように吐き捨てた。

 「俺の家族に手を出したら殺す」
 
 その、眼帯で隠されていない右目は大きく見開かれ、しっかりと潤の姿を網膜へ焼き付けている。おどおどと視線をかけらも合わせるどころか潤を見ようともしない姿は一転して、目の前の標的を殺すことだけが脳に焼きついた殺人鬼へと変貌していた。
 「は、はははははっ!面白ぇじゃねぇか!いいねぇ!命知らずの馬鹿は大っ好きだ!手抜かり無く手ぇ抜いてやろうじゃねぇか!だが!あたしと兄ちゃんのキスを邪魔したことだけは許さん!」
 「何言ってんだお前は!」
 「軋識兄さん、この馬鹿女はどこの頭のトチ狂った馬鹿ですか」
 微かに落ち着いたのか、忌々しげに吐きすてながらも普段通りの人を皮肉る話し方に戻った景識を呆れながら見やり、軋識はとにかくそれを仕舞え、とゆっくりと言う。
 「ですけど」
 「俺でも勝てねぇっちゃ。だからお前も勝てない」
 力量で言えば確実に景識も上の軋識が教え込むように言えば、景識は軋識をじっと見つめ、「分かりました、」としぶしぶ鑿をポーチへと仕舞った。
 「つまり軋識兄さんは不肖よりもこの女を取るんですね」
 「ちがっ!?」
 「所詮軋識兄さんも双識兄さんのように女にしか目がないんだ・・・妹好きにロリコンなら恋と家族どっちをとるのかなんて嫌なことが起こらないって信じてたのに・・・もう誰も信じない。軋識兄さんなんてその赤い馬鹿と乳繰り合ってればいいんですよぉおおお!」
 そんな捨て台詞を吐いて景識は逃げるようにリビングから飛び出していった。しかし思いのほか早くばたん、という音をするからに、このマンション内の空き部屋へと入っていったのだろう。恐らく腹が空くまで引きこもるつもりだ。
 唐突にやってきて唐突に暴走し、唐突に引きこもりを開始した一応の弟が消えた先を呆然と見ながら、上げかけた手の行き場を無くした軋識は、背後にて首を傾げる潤へゆっくりと振り向き、「どうすりゃいいと思う?」と助けを求めた。
 「うーん、じゃあとりあえずリクエスト通り、乳繰り合っとく?」
 「わかった。とりあえずお前帰れ」
2008/03・08


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