NOVEL


Love . Love . Love

木製の、レトロな喫茶店のような扉を押し開ければ、丁度エントランスの掃除をしていた西院御黄がぱっと顔をあげた。
「あ、燕ちゃん。こんにちは。師匠は今私室で絵描いてるんじゃないかな」
「こんにちは、黄さん。らりは?」
「多分師匠と一緒だと思うけど、らりちゃんに用?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、・・・お邪魔します」
「うん、どうぞ」
常に泣きそうな顔をしている西院御が笑うと、辛いのを堪えているように見えて、末榎は毎回何か自分が悪いことをしてしまったのではないか、と思ってしまう。掃除の行き届いたエントランスホールを見回しながら、正面の螺旋階段を昇る。つやつやした木製の手すりを確かめるように昇っていくと、丁度その黒羽叶が降りてくるところだった。その後ろに、真っ赤な燃えるような髪の毛が床につきそうなほど長い少女が追いかけている。
黒羽は末榎がよく頼りにしている父親代わりの人だった。家から捨てられ養育学校に入れられた際、精神状況を落ち着けさせるために、学校が派遣したのが黒羽叶だった。今や人間そのものとしか思えない人形を作る天才技術師であるが、かつては精神方面に秀でた学者でもあった。
「あ、黒羽さん・・・」
「あっ燕ちゃん!なに、どうしたの、お仕事?」
「らり、鬼姫の手伝いでもしていなさい。末榎、ダイニングで話しましょう」
事前にアポをとっていたので、末榎は大人しく従い、途中まで登っていた階段を黒羽を追って下った。首を傾げながら追いかけてくるらりがじいっ、と穴の開きそうなほど末榎を見ていたが、結局末榎は気がつかなかった。
ダイニングへ通されると、黒羽は小さな黒い皮製のカバーのついている手帳を持ってきて、末榎の座る向かいに腰を下ろした。白い手袋を嵌めて、丁寧にページを捲る。
「シグルド・R・ポールマン・グリニアーネ・ポーン、愛崎六月・ヴィヴィアン・ドルチェ、コーネリア・シーメイル、薄賀透也、オフェリア・ハーヴェイ、アルベルト・ハンゼン、メランコリィ・ビバルディ、有山果実、張八啓、フィフィー、アルジュリア」
「グリニアーネ・ポーン・・・」
「嫌ですね。自分の名前すら忘れたんですか?まぁ、あの頃貴方は色んな人から色んなあだ名で呼ばれてましたからね。本名で呼ばれる方が珍しかったかもしれませんから。末榎燕は六月が命名したんでしたっけ?懐かしいですね。あの頃は皆そのまま軍学校に進むと思ったら、そのうち一人が犯罪者兼殺し屋、九人が軍学校行き、一人が消息不明、一人が裁判官の卵、一人が医者の卵ですか・・・まったく誰がどうなるか分かったもんじゃありませんね」
「シグルド・・・ヴィヴィ・・・コーネル・・・透也・・・オフェリア・・・アル・・・果実・・・八啓・・・フィフィー・・・ジュリア・・・」
ぶつぶつ、と呟く末榎を訝しげに見ながら、やれやれと黒羽は溜息を吐いた。
「末榎、気に病むことはありません。どうせ貴方の悪い記憶は全て六月が処理するでしょう。貴方は彼女のために、彼女を守り、何も考えずに生きてればいいのです。シグルドやアルベルト辺りは怒るかもしれませんが、何だかんだ言いながら彼らはちゃんと理解していますから」
「理解?理解って何?」
「そのままの意味ですよ。貴方は貴方が思っているより、多くの人に大切にされているのです。貴方が仲間を重んじる人間だから、彼らは貴方を心配しているんですよ。私だって貴方に無茶はさせたくない。だから六月から無理に引き剥がすこともできないのです。分かりますね?」
「待ってよ、黒羽さんは何を知っているのさ」
「末榎、貴方は我慢していればいいのです」
黒羽叶はそう言って、お茶飲みますかと聞いた。末榎は首を振って、しばらく項垂れた。何も食べる気分ではないし、何も飲む気も起きない。頭ががんがんと痛んで、何もかも恐ろしく感じた。私の知らない場所で、恐ろしいことが起こっている、と思った。黒羽はそれを痛ましそうに見つめ、しばらくそこで一緒にいた。
愛崎六月は末榎が思っているような、か弱い、ただ守られるだけの少女ではないということは確かだった。末榎は真緋路と会った後、六月の目を盗んでメランコリィに連絡を取った。かつての友人は昔と変わらず、真摯に末榎を慕ってきた。かつての同期の仲間の話を出すと、その半分以上が末榎にとって覚えていないものだった。頭の中にもやでもかかったように、曖昧で苦しく、どうにも分からない。メランコリィはひたすらに心配していたが、末榎はなんでもないといってそれから逃げた。理解できない恐ろしいものに、メランコリィを巻き込みたくなかった。
「六月は・・・人なんですか」
「それもよく分かりません。催眠術が使えるのかもしれませんね。それほど少なくないらしいですし、最近は催眠術を使ってのセラピーも増えてますし。ですが、彼女が普通ではないことは確かです」
「彼女を糾弾することはできないんですか」
「できます。が、それは貴方にしかできません。私たちではできない」
「どうして・・・」
「貴方が守っているからです」
黒羽は淡々と語った。
「六月は誰にでも愛される子供でした。美しく優しく誰にも平等で、媚びず、強い子供です。全ての人が彼女を尊敬し、敬愛し、恋をしました。だから彼女は特別に好きな人を持たなかった。でも、貴方がいた。貴方は六月にとって恋の対象になった。貴方は六月に恋をしなかった。だからこそ貴方は六月に魅入られた。貴方は、貴方が知らないうちに、六月に捕まっていました。六月を守るのは貴方だけになるように、六月が仕向けた。貴方は見事に術中に嵌まった。六月をいつでも守る砦は貴方なのです。だから私たちは六月に何もできない。六月を攻撃するならば、まず先に貴方を攻撃しなければならないからです。六月を、六月だけを攻撃できるのは、砦である貴方しかいないのです。分かりますね」
「じゃあ、私が彼女を捨てればいい」
「ですが、貴方の記憶は六月にいいように操られている。貴方の全ては六月で構成されている。だからこそ、貴方は六月を裏切れない。無茶をするものではありませんよ、末榎。自分を大切に思うのならば、何もしないのが得策なのです。わかりましたね?・・・」





部屋に戻って、末榎はベッドに沈んだ。ひとしきり泣いて、そして眠った。体にずしりとかかる重さは、グラディウスのものだけではないと思う。重い。苦しい。辛い。全てのものに裏切られた気分。
目を開き、そして閉じる。全ての動作が億劫で、息をすることすら嫌になった。
「燕、末榎、ねぇ、いるんでしょ」
扉の向こうで六月が呟く。
「昨日、どこかに行ってたでしょ?ねぇ、どこにも行かないで、怪我とかしてないでしょ?ねぇ、ここを開けて、顔を見せて」
末榎は、のろのろと体を起こし、鍵をかけていた扉まで歩み寄った。かちゃ、と音を立ててゆっくりと扉を開ければ、廊下に立った愛崎六月が、今にも泣きそうな顔で末榎を見ていた。
「六月・・・・・」
末榎は掠れた声で言った。言うべきことがあった。言わなければならないことが。
扉の隙間から、六月の綺麗な手が伸ばされて、末榎の頬に触れた。そっと指先で頬をなぞられ、どうしたの、という声にほだされる。
「末榎、おかえりなさい」
「ただいま、六月・・・」
喘いだ言葉は何故か泣きそうな音をしている。末榎が驚くほど。どうしてこんなに、自分はつらそうな声をしているのだろう、と末榎は思った。右手だけがただ一人、逃げるようにグラディウスの柄を撫でていた。