NOVEL


Love . Love . Love

約束の時間より1時間半もはやく着いてしまって、末榎は大層困った。参ったと言ってもいい。何と言ったって、夜中の公園が相当怖かったからだ。
幽霊が出そうだった。どう考えてもどこかに居そうだった。
「こわっ・・・」
呟くと、この場所に自分しかいないということが浮き彫りになり、恐怖心が一層増した。幽霊がいなくとも、殺人犯はいる。末榎はとりあえずブービートラップでも張って近くの木陰に隠れよう、と判断した。暗闇の中、電灯がぶううん、と低い音を立てている。
「随分早いね」
突然、背後から声を掛けられて、末榎は素早く反転した。緊張のせいで足が縺れ、少しよろける。その僅かな間に背後に立った人間が、素早く片手を斜めに振り上げた。電灯に照らされて、その手に持たれている何かがちかりと光る。
末榎は、そのまま後ろに転んでしまった。それでも、その人間相手に、その男を前に、無様に座り込んだ瞬間、自分は死んでしまうと思って、後転の要領でまた一回転した。
予想通り、先ほどまで自分の足があった場所に、どすりと音を立ててサバイバルナイフが突き立てられた。
「へえ、なんだ。そんなに弱くないじゃない」
そう、大して興味も無い風に、少年は笑った。電灯の逆光で、顔はよく見えなかったが、目が赤いことだけは分かる。外人らしい彫りの深い、それでもまだ成人していないあどけない顔が、醜く歪んでいる。
「もっと、さ、平和ボケしてると思ったんだ。お前は昔っから間の抜けたような顔をして、何事も波風立てないふうに過ごす奴だったから、どうせ軍隊なんてすぐやめると思ったのに、そうやってのうのうと暮らしてるもんだから、どうせ軍学校なんて大したことないと思ったんだよね。でもこの間校長と闘ったら結構強くてさ、驚いたんだよ。あの人、昔から口だけだと思ってたからさ。だからお前も成長して、一丁前に軍人らしくなってると思ったら、誰も居ない公園で一人びくびくしてるくせに禄に警戒もしないでさぁ、のんびり、なに、今トラップでも仕掛けようとしたんでしょ?ほんと、ねぇ、成長しないねお前は。でもそういうところは嫌いじゃないよ。周りがどんな状況でものうのうと飄々とぐだぐだと一人っきりで過ごしてるようなもんだからさぁ、あの女も、六月もさぁ、お前を好きになるんじゃないかなぁ。っていうか、まだお前ら一緒にいるわけ?まぁ、どうせ六月がお前を放さないか。まったくお前はやっかいなのばっかりに好かれるよね。六月といいさぁ、あの校長とかさぁ、僕の義兄さんとかさぁ、メランコリィとかさぁ、シグルドとかさぁ。お前のどこらへんが人を惹きつけるんだろうね?人に興味がない振りをして、クールぶってるから?わかんないなぁ」
「おい。ちょっと待て。お前、一体何を・・・っていうか、六月?六月がどうしたって?」
少年は、真緋路は混乱する末榎など大して気にも留めず、ただだらだらと、つらつらと、自由気ままに勝手気ままに一方的に言葉を吐いた。大量に放出される意味の分からない言葉の羅列に、末榎は呆然としながらも、なんとか立ち上がった。
「グリニアーネ、僕は悲しいよ。お前はもっと人を信じない面をして刃物振り回して喜んでる、僕みたいな間抜けだと思ってたのに・・・まったく寂しい。今のお前はまったく意味が見出せないほどのいい子ちゃんだ」
「何言ってるかわかんねぇんだよボケ!六月がなんだって・・・」
「お静かに願います」
ついに激昂した末榎の首に、しなやかな腕が回された。肌寒い季節とはいえ暑そうだと思える真っ黒いコートに包まれた長い腕が、末榎の首を絞めるように背後から回された。山辺景而かと思ったが、背後から掛けられた声は落ち着いた、艶やかな女のものだ。末榎の首に回された腕の長さを考えても、どうしても女性とは思えないほど背の高い人間のものだと思われたが、末榎からは確認できない。
「ベル、僕の友達に手荒な真似はするなよ」
背後の人間に対して、溜息混じりに真緋路は怒ったような声を上げた。末榎は、おそらくコンビを組んでいるらしい女だろうと勝手に推測し、そしてそれが当たっていることを確信した。
「申し訳御座いません。ですが真緋路さまの人のことを慮ることを知らない言葉を聞いた時点で、彼女はすでに武器を手にとるようでしたので、真緋路様への危害を食い止める役割である私はこのような手段に出るしかなかったのです」
「そう」
「・・・・・・友達?私はお前みたいな友達なんか知らん」
「相変わらず忘れっぽいな。グリニアーネ。前々から思っていたんだけれど、君、痴呆症なんじゃない?アルツハイマーなんじゃない?治療薬が最近できたらしいから、貰ってくるといいよ」
「うっせぇ」
毒づいた瞬間、首に回された腕に微かに力が込められた。末榎は言葉を押しとどめ、静かに目の前でにやにやと笑う少年をありったけの憎しみを込めて睨みつける。
「・・・でもこう考えると、お前の記憶力が最高に悪いのは、六月が記憶操作しているんじゃないかとも考えられるね。あの女はお前の記憶の中で自分が最優先順位に居させてもらいたいらしいし。だから僕のことを毎回記憶から抜かした、とかね。とりあえず聞いておこうか。君、親のこと忘れてるだろ?」
「・・・・・・」
「グリニアーネ殿、返答はイエスかノーです」
「なんだってんだ・・・そもそも、グリニアーネって誰のことだよ・・・私のことなら、ふざけんじゃねぇよ、だ」
「グリニアーネ殿」
低く囁かれる声はまったく冗談を感じない。こいつは酷い。最悪だ。末榎は心の中で吐き捨てる。この女はヤバイ。この子供もヤバイ。S級って、こりゃ園山もあんなに怯えるわけだ。足ががくがくしてきた。くそっ!
末榎は一度深呼吸をして、「イエス」と答えた。その返答に満足したようににんまりと唇を歪め、真緋路は笑う。
「だろうね。親なんて真っ先に忘れさせるに決まってるよ。じゃあ、君の育て親は?校長先生は覚えているか?」
「イエス」
っていうか数日前に白兵戦の講習会で見た。校長は軍隊では色んな仕事ができるオールマイティな人だが、基本的に白兵戦を得意にしている。銃を使うのが苦手という、刀を常に持っている人だ。
「僕の義兄さんは?」
「・・・」
「別にイエスかノーじゃなくてもいいよ」
「そもそもお前が分からん」
末榎がそう吐き捨てると、これは失敬、とでもいうように真緋路は肩を竦めた。
「僕は君と同期生だよ。養育学校の精神養成部で3年間寝食を共にした仲だ」
「お前なんか知らん。そもそも真緋路なんて名前、聞いたことない」
「真緋路ってのは偽名だよ。こんな名前の奴がいて良いと思うか?っていうか僕、どっからどうみても外人だと思うんだけど。この髪も染めてないし」
「外人の友達は・・・・・一人だけだ」
「一人?へぇ!誰だ?君の数多き多国籍の友人の中、君に唯一覚えられている奴は?」
真緋路は興味津々といった様子で、末榎の顔をじぃっと見た。顔をずいっと近づけて、末榎が少し身を引くと、後頭部が背後にいる女の胸部に押し当てられて、慌てて離れる。
「・・・メランコリィ・ビバルディ」
「あははははははは!」
名前を聞いた途端、真緋路は哄笑した。ぽかん、と末榎が見る中、真緋路は笑えるだけ笑いつくすと、ふふふ、と喉を震わせながら、「お前はそろそろ死ぬかもしれないね」と言った。
「似たようなことを言われたな」
「メランコリィのことを覚えてたのは上々だ。あの馬鹿女の友達はお前しかいなかったから、忘れてたら可哀相だからね。でも、せめてシグルドのことだけは覚えてないと。あいつ、自分が君に忘れられてるって知ったら滅茶苦茶怒ると思うよ」
「知らんもんは知らん」
「ふふふ、その台詞、シグルドを目の前にして言えるかな?まぁなるだけ思い出してやれよ。六月に頼んどいた方がいいと思うね。私を助けると思って!ってね」
「・・・」
「そんで、僕のことはまぁいい。僕は数年前に死んだ身だからね。僕の義兄さんというのは黒羽叶だ。覚えてる?」
黒羽叶というのは、数年前に人間に最も近い人形を作った技術師だった。末榎が幼年学校に居たときに監督役になっていた男で、今も交流を持っている。
「イエス」
「なるほどね。あいつが結婚済みだからかな」
「・・・・お前、黒羽さんの義弟ってことは・・・もしかして真白さんの」
「それ以上は聞いちゃ駄目だ」
真緋路はそう言って笑った。そして一言、離せ、と呟くと、末榎の首に腕を回していた女が末榎から離れた。
末榎は素早く体を捻り、二人から距離をとるように撥ねた。丁度二人から5メートルほどずつ距離を取り、ようやくグラディウスを抜き取る。
「人質はいるか」
「人質?」
「言っただろ、妹を預かってるって」
「ああ、あのメモ?」
そう言って真緋路はにんまりと笑った。
「お前に妹なんかいたっけ?」
「いねぇよ。私に妹がいるもんだと思い込んでる、頭のいっちゃってる奴が呼び出したのかと思ったんだ。だから、人質はいないんだな?」
「いないよ。まぁ、そうだね、お前の妹分みたいなのは預かってるよ。まぁ名前を言ってもどうせ分かんないだろうから言わないけど。っていっても、そう殺気立つなよ。お前にとっての妹分は、僕にとっても妹分なんだからさ、何もしないよ。そいつがちょっと路頭に迷ってたから、今保護してるだけだ。お前に会いたがってたけど、会わせない方がいいだろうね。慕ってた姉貴分が自分のことを忘れてるなんて知ったらショックだろうから」
「・・・・・・・・・・何のために呼び出した?」
「お前にちょっとちょっかい掛けてからこの街から出ようと思って。六月にも会おうかと思ったけど、お前に会ったら六月には会えないだろうし、六月に会ったらお前に会えなくなるだろうから、お前をとった。別に僕、あの女好きじゃないし、っていうかむしろ嫌いだし」
「出れると思うか?きっと包囲網が敷かれてる。この街からは出られない」
「いいや、出れるさ。僕がやろうとして今までできなかったことは一つしかない」
「じゃあ出さねぇ!」
そう言って、私はグラディウスを前に構え、左手でハンドガンを抜き取りつつ走り出す。殺せなくとも、捕まえられなくともいい。とにかく、できれば足に致命傷を負わせることができたら、きっとこの街から出るのは不可能だ。S級犯罪者というのを抜いても、どうにもこいつが気に食わない。勝手なことをぐだぐだと喋りやがって。私のことはともかく、六月のことを適当に言って、その上メランコリィまで馬鹿にしやがった。
末榎が真緋路の方へと走り出した瞬間、同時に背の高い女も動いた。高い背がその三分の一の低さまで傾くと、まるでミサイルのようにその体が撥ね、黒いコートを着ているせいで何か黒い塊が末榎の前に躍り出たように見えた。グラディウスを持つ手首を掴み、いとも簡単に捻りあげる。しかし掴まれたと同時に、末榎の持つハンドガンが発砲された。
女は真緋路を横抱きに担ぎ上げ、獣のような動きであっという間に末榎と距離を取った。グラディウスと前方に投擲し、末榎はハンドガンを持ち替えた。逆に空いた左手で腰の重荷になっているソードブレイカーを追い打ちのように投げつける。敵が刃物を持っていない場合、ソードブレイカーはただの鉄の塊、いざというときにしか使えない。そのまま一緒に前に飛び出し、グラディウスを回収し、末榎はいとも容易くソードブレイカーをジャンプすることで避けた女を追った。命中率があまり高くないので、ハンドガンはすぐにポーチに吊るした。先ほど真緋路が末榎に突き刺そうとしたサバイバルナイフを拾い上げ、それも投擲する。女が素早く体を逸らしたので、それは背後の木にどすりと重い音を立てて突き刺さった。
「あまり怒るなよ。グリニアーネ。惚れたらどうするんだ」
「どうでもいい!」
「真緋路様、あまり怒らせないで下さい」
はぁ、と溜息を吐きながら、女は真っ直ぐに公園の入り口へと走っていく。ほぼ一直線で、周りに障害物はない。末榎はハンドガンを抜き、ただひたすらに撃った。この夜中、この軍が収める街中で徘徊する人間は居ない。一般人を巻き込むケースはないといってもいいのだ。
弾切れを起こした拳銃は、同じように投擲した。背中に目でもついているのではないかと思えるほど、女は軽々とそれを避けていく。
「グリニアーネ!」
「だから誰だっつーの!」
「山辺景而は既に逃走済みだ!」
「はぁ?!やっぱりお前らグルだったんか!」
「山辺景而は察してる通り精神を病んでいる!奴は視線恐怖症だ!奴は人殺しがしたいわけではない!あいつと会ったとき、目を合わせなければ殺される心配はない!そう学校に伝えろ!」
「なんでてめぇの命令受けなきゃいけねぇんだよ!」
「あはは!じゃあ、また会おう!グリニアーネ!」
「嫌だよこの犯罪者!さっさと捕まれ!」
そう言うやいなや、真緋路を抱えていた女があっという間に走り去っていってしまった。さっきまで手を抜いて走っていたらしい。ぐんぐんと距離を広げられ、末榎がついに立ち止まったとき、既に女の黒い姿は夜の帳に包まれて、もはや肉眼では見えなくなっていた。
「くそ、くそっ、なんだっていうんだよ・・・むつき・・・!」
荒い息を吐きながら、末榎は喘いだ。記憶の中、例え軍に従おうが何があろうが末榎の味方であった一人の美しい女の姿が、これほど不確かであったことがあっただろうか、と末榎は泣き崩れそうになった。