NOVEL


Love . Love . Love

久々の早朝の空気はやけに冴え渡っており、息を深く吸えば微かに湿った冷たい気体が体の中に染み渡る感覚がした。既に登校し始めている生徒が数名、のろのろと歩く末榎を追い越していき、しばらく濡れたアスファルトの道を俯きがちに眺めながら、末榎はぺたぺたと道路端を歩いた。
寄宿舎の周りは田んぼで囲われており、整備されていない道を覆う雑草が、雨露を危ないバランスで器用にも乗せ続けている。夜中に少し雨が降ったようだ。道沿いに植えられた桜並木が雨によって結構花を散らされており、アスファルトの上を覆うように桃色の桜の花弁が侵食していた。カーディガンを着ているが少し肌寒く、末榎は自分が足早になるのを感じながら学校へ向けて足を進めた。ストッキング越しで冷たい風が足を突き刺すような痛みを引き起こしていた。
最悪のオチは学校が閉まってるってことなんだけど・・・まぁ他にも人が居たし、平気だよな。
肩から提げた鞄が下がり始めたのを揺すりながら戻し、投げやりな考えを持ちながら曲がり角を曲がった瞬間、すれ違うように男が末榎の隣を通っていった。
7時前に出歩く人間は少ない。末榎のように学校に通う人間ならばまだしも、男は黒いジャケットに藍色のシャツ、ジーンズという学生にはどうしても見えない格好をしていた。しかも学生が向かう方向とはまったくの真逆に歩いていく。末榎は俯きながら歩いていたせいで男とぶつかりそうになってしまい、男の足が視界に入った時に慌てて顔を上げた。
男も禄に前を見ていなかったらしく、眼帯で隠れていない右目を大きく見開いて末榎と一瞬、見つめあう。
「すみません」
「いや、すみません」
末榎が反射的に謝罪すれば、男もたじろぎながら頭を垂れた。格好いい人だな、と末榎はぼんやり思いながら、そこでようやく体の動きを止めた。
眼帯?
次の瞬間、末榎の頭の中に昨日見た犯罪者リストの顔写真が浮かび上がった。医療用の白い眼帯、整った顔立ち。
まさか、と口に出して言ってしまいそうになりながらも、末榎は道を開けながら男の顔から目を離す。じろじろ見ていたら警戒されて何が起こるか分からない。だが、これで別人だったらどうする?末榎はできるだけ自然な動作で男の体をざっと眺めた。腰の裏にポーチのような鞄をつけているだけで、手には何も持っていない。
警邏の特権で身体検査をさせてもらおうか、いや、突然であった相手に身体検査されて、その上ただの一般人だったら失礼だろう。
男は立ち止まった末榎を不審に思ったのか、数秒同じように立ち止まっていたが、道を開けているのかとでも思ったのか、軽く会釈をして立ち去ってしまった。ほら、馬鹿な。殺人鬼が何もせずに立ち去るはずないだろう。
末榎は既に曲がり角の先へ消えてしまった男の背中を追うように見たが、小さく苦笑して再び歩き始めた。
ほら、六月も言ってただろうに。この軍の町で犯罪者がそうそう簡単に歩けているわけがないのだ。
間違えてしまったことによって心の中を罪悪感が満たしははじめる。道端で会った人間に犯罪者呼ばわりされるなんて災難だろうな。
一度深呼吸をしようかと息を吸い込む。そして再び、末榎は足を止めた。
吸い込んだ空気に、嗅ぎ慣れた匂いが混ざっていたのだ。
「・・・・・・ああ?」
うっかり、一人で声を上げてしまう。
その生臭い匂いは、風に乗って確実に届いていた。先ほどすれ違った殺人鬼に似ている男を思い出し、即座に背中がぞっと冷えた。
「・・・・・・・」
匂いの根源を探して、視線をうろつかせながら奔る。匂いはだんだん強くなる。
くらくらする。
・・・ここは、町だ。
戦場じゃない。
私が戦う場所じゃない。
でも、血の匂いがする。
私の生まれた場所で、私が生きるべき匂いがする。
足が縺れて頭がくらくらしてくる。ああ、くそ、なんで私は走ってるんだ。走ってどうなる。通り過ぎるかもしれないだろ、落ち着けよ。
そう思い初めて、ようやく走るのをやめて、左側にあった細い裏路地に視線を向かわせて―――末榎は、絶句する。

細い裏路地のその正面、2.30メートル先にあるどこかの店の倉庫の木の壁、磔死体が、そこにあった。
まるでイエス・キリストのように両手を広げて、木製の壁に磔られていた。
目玉がある部分から、鑿か錐か、アイスピックか、とにかく手で握り締めれるような取っ手のようなものが生えている。滑稽な顔は逆にその惨酷さを醸し出しており、末榎は息を飲む。
丁寧に足も鑿で裏の板に串刺しにされている。朝の陽光を浴びて、死体はきらきらと血液を輝かせていた。
細い通りの端と端で向かい合うように立ち竦みながら、末榎は辺りに人がいないのを確認し、携帯電話を取り出した。
電話帳に登録している、や行の一番上にある電話番号を押せば、即座にコール音が鳴り始める。
1コール、2コール、3コール。「はい、谷津河軍育成教育学校です」運が良いことに、副担任の山岸だった。
「こちら、2年4組、18番、末榎燕です」
手は震えていたが、声は正常だった。死体から目を離すことができず、末榎は無意識のうちに、背中裏に引っ掛けているベルトに入れられているグラディウスを撫でた。
刃渡り50cmの短剣と呼ばれる基本的なその凶器の柄を握り締め、末榎はその掌に染み付いた冷たさに唇を噛み締めた。
「B地区の商店街で、人が殺されています。犯人は特定できていませんが、目を潰されて、磔にされているようです」
「了解。末榎燕はそこで待機していなさい。すぐに処理班を向かわせます」
山岸は特に驚いた様子も無く、そう言って通信を切った。末榎は携帯電話を鞄に収め、代わりに立ち入り禁止の黄色に黒字のテープを取り出し、細い通路の入り口に貼った。
念のため右手でグラディウスを抜き、左手を交差して背中につけていたマインゴーシュへ添わせ、テープを潜って中へと入る。血の匂いが消えないその路地、正面に磔にされたまま動かない人間に近寄った。
ようやく全貌が分かるようになれば、その死体は同じ学校の男子生徒のようだった。目玉に突き刺さっているのは鑿のようで、深く押し入れられていることから、おそらく刃の部分は脳へ貫通していることだろう。あまり血液がでている様子はなく、頭の逆側から噴出した血液が木を真っ赤に染め上げているだけだった。
さらに近づいてみれば戦闘によって切り付けられたのか服の所々が裂けている。一応奮闘したのだろうか。
末榎はそんなことを思いながら、抜けれる道がないことを確認し、路地の表で処理班を待った。2分後、結局人が通ることもない中、静かに漆黒のトレーラーが末榎の背後で沈黙したままの死体を迎えにやってきた。



近辺の連絡と不審人物の連絡を終え、小川原に一礼して職員室から退室する。トレーラーに死体と一緒に拾われた後、精神状態の確認やカウンセラーの人間との会話によってやけに疲れていた。
後から末榎が聞いた話では、あの磔死体の近くに首が無い死体があったらしい。どうやら首無しの方は前々から言われていた殺人犯のものらしく、死んだ男子生徒が殺したものだと判別された。小田川が言うには、殺人犯を男子生徒が殺した後、疲労か気を抜いた瞬間に殺人犯に殺されたそうだ。やけに血の匂いが強いと思ったら、首か。末榎は妙に納得しながら、結局使うことなく済んだマインゴーシュの柄を撫でる。そして、唐突にああ、そういえば、結局課題出来なかったな、とぼんやり思った。今は一時間目が過ぎた頃だ。肩にかかる鞄の重みに辟易しながら、末榎は教室へと入った。
「おはよう」
「あ、おはよう」
気遣うような視線をもって、クラスメイトが挨拶を投げかけてくる。苦笑で返しながら、末榎は自分の席へと座った。すぐに走り寄ってきた六月が、心配そうな顔で末榎を伺う。
「大丈夫?なんとも無いの?」
「ん、ああ。別に戦ったわけじゃないし」
「そう、よかった」
六月は心の底からそう囁いて、幸せそうに微笑んだ。「末榎が凄く心配で・・・」末榎は笑った。
「六月はおかしいよ」
「おかしくなんかない。末榎が私の見えないところに行くのが怖いの。どこにも行かないでよ」
末榎はまた笑う。魅力的な言葉だ、と思った。六月は真剣そうな顔で、末榎の頬を掌で撫でた。六月の柔らかい象牙のような肌が末榎の病的に白い肌をなぞる。
「末榎が傷つくのを、想像さえしたくない」
それは無理な話だ。末榎は兵士だし、その上白兵戦を得意とする、まさに前線で戦う特攻兵なのだから。
「無理言うなよ」
「死んだら、許さない」
「どう許さない?」
「もう一回、生き返らせて、怒るわ」
今度こそげらげらと末榎は笑った。どこのホラー映画の台詞だろうか。人の少なくなり始めた教室の中で、苦笑したまま末榎は六月の手を払った。
「次、実習だよ」
「怪我しないで」
末榎は相変わらず頑固な友人を見て、分かってる、と薄く笑った。そう言わなければずっとここで口論してしまいそうだったのだ。
六月はようやく、誰もが見惚れるような美しい表情で、ゆっくり微笑んだ。
そうしている方がいい、と末榎は心の中で呟いた。



点呼、と教員が叫ぶ。右端からイチ、ニ、サン、とやけに大きな声が聞こえてきて、時分の番が来たら末榎はジュウニ、と反射的に叫んだ。数字ではない言葉を喋っている気分だった。
「本日は潜入活動についてやるぞ。5人ずつ隊を組んで、練習場に10分毎に来い」
普段の団体行動と変わって、チームを組むという隊長の支持に、男子の一人が手を上げた。
「相浜」
「はっ!」男子が一歩隊列から前に出る。
「隊長、本日はテストでしょうか」
「そうだ」
「・・・了解しました」
さらりと、しかし顔だけは笑っている状態で返答され、男子は渋面を作って元の列に前とまったく変わらない位置にぴたりと戻った。周りの生徒は表情は変えなかったが、嫌そうな空気が辺りを支配する。
「ははは、そんなに重く考えなくてもいい。新任の教師のために、お前らの実力を教えようかと思ってな。身体測定みたいなもんだ」
「隊長!」
今度は女子の声が青空に響く。顔も見ずに、教師は名前を呼ぶ。
「溝口」
「はっ。施設に敵役は来ているのですか」
「今年入った一年のエリート達が入っている。どちらかというと、そっちのエリート軍団のテストだな。お前らが逆に図る側だ。おっと、言い忘れていたが、後でレポート提出もあるから、一年の動きには気を配っておけ。以上!」
教師はそういい終えると、「先行!」と生徒達を促した。







***
来る。目玉が来る。不肖を追い回している。ぐるぐるぐるりと、目玉を回して。眼球が。追いかけてくる。
「見るな・・・見るな、見るんじゃない。ちくしょう、いやだ。みるな、みるなみるなみるなみるなみるな・・・・・!」
懇願は空気に溶けて、絶望が男の背を追い回す。
めだま。がんきゅう。そうぼう。もくもくれん。
圧倒的な恐怖、見られているという絶望、視姦されているという羞恥、逃げ切れない終わり。
「いやだ・・・いやだ・・・!」
路地を歩き回り、ついにゴミ捨て場の前で崩れ落ちた先、ぺたりと音を立てて、黒いスニーカーが自分の目の前で止まった。
「大丈夫かい、お兄さん」
少年はそう言って、にっこりと笑ったまま、殺人鬼の背中を撫でた。
感情の欠けた目玉が、殺人鬼を興味無さそうに見ている。
「不肖を視るなぁああああああ!」
絶叫。

そして、沈黙。